余程深く切れたのか、床に転がり直して暫くの時が過ぎても、未だ、セツナの左のこめかみ辺りからは、タラタラと血が滴り落ちていた。

だから。

そろそろ止まってくれないと、いい加減貧血になる……と。

「……あ、クラクラして来ちゃった……」

ボソっとセツナは洩らし、コロリ、床の上で寝返りを打った。

…………段々、しんどくなって来ちゃったから、もう、取り敢えずのなり振り構わず、逃げちゃおっかなー……、などと考えながら、彼が姿勢を直し終えた時。

「お兄ちゃん、生きてる?」

キッ……と、軋む音を立てながら、放り込まれた部屋の扉が開いて、あの子供が顔を覗かせた。

「……生きてるよー。一寸、クラクラするけどねー。……それよりも。結局君って、『ここの人』だったんだねえ…………」

あの時、「お姉ちゃんが……」と泣きながら、自分に縋って来た子供とは思えぬ程、子供らしからぬ、どちらかと言えば下卑た笑いを浮かべながら、自分へと近付いて来た子供へ、セツナも、唯の少年とはお世辞にも言えない、にっこぉぉ……とした表情を湛えてみせた。

結局この子は、山賊の仲間だったのかぁ……と、現実を、げんなりと受け止めながら。

「何だ、やっと気付いたんだ? こっちの正体。…………あーあ。物凄く深く切れてる……。手加減しないんだから……。──商品になるかも知れないのに、傷なんか付けちゃって、勿体無い」

「別に、心配してくれなくたっていいよ? こんなの多分、薬か紋章使えば、跡も残らないだろうから。…………でも、商品……になるかも知れないって? 僕、売られるかも知れないってこと?」

「うん、そう。売られるかも知れないし、売られないかも知れないしって感じ。そんなこと、家のお頭が決めることだけどさ」

「…………どうして?」

燭台片手にやって来た子供が、蝋燭の明かりを翳しつつ傷の具合を確かめ、渋い顔と共に洩らした言い回しに、ん? とセツナは首を傾げ。

そんなセツナの態度を、僕、どうなるの? と訝しんだと受け取ったのだろう子供は、言葉を選ぶこともなく話し始めた。

「俺達だって、馬鹿じゃないからさ」

それまで使っていた、殊勝な言葉遣いさえ常の物だろうそれに戻し。

「こんな商売やってるんだから、色々と、考えてるってば。そりゃ、たまにはホントの迷子ってのが、ここに紛れ込むことだってあるけど? 女子供を、女だから、子供だからって思っちゃいけないって『実例』、ここにいるじゃん。だからさ、何時誰が、俺達の尻尾を捕まえに来てもいいように、手筈だけは整えてあるの」

あはは、と笑いながら、子供はそう告げて。

「ふうん……。僕みたいに迷い込んで来た人がいたら、ホントの迷子かどうか、君がカマ掛けて確かめてみる……とか? してるの? 何時も?」

「んーー……。まあ、そんなトコ。たまたま今日は、あんたが俺の受け持ちの場所にやって来たから、こうなった、ってだけだけどね。『お兄ちゃん』、唯の迷子には見えなかったし。もしも、本当に俺達のこと捕まえに来たお偉いさんの一人か何かだったら、ああするのが一番簡単かなーって。……普通の奴はさ、子供は子供、としか思わないし。いたいけな子供が人質に取られてるの見せ付けられたら、抵抗しなくなるっしょ?」

「そりゃ、まあねえ……。──まあ、その辺のことは判ったけど。で、僕はどうなるの?」

「……ああ。あんたが本当に、唯の迷子って判ったら、売り飛ばすだけだよ。それが、俺達の商売だし。もしも、あんたが俺達を捕まえに来た連中の一人だったら……そうだなあ……。さっきも言ったみたいに、お頭がどう考えるか、次第だけど……多分、死ぬんじゃない? 大金積んでも取り返したいって、お偉いさんが思うくらい、あんたが偉ければ話は別だろうけどさ。ま、そんなこと、有り得ないと思うし」

「……………あ、そー……」

──世間話を喋る時のように。

あっさりと言って退けた子供に、あーあ、とセツナは、遠い目を返した。

「何? 溜息なんか付いちゃって。……ま、あんたが唯の迷子だったとしても、そうじゃなかったとしても、気分のいい話じゃないとは思うけどさ。…………唯の迷子だといいねえ、『お兄ちゃん』。少なくとも、殺されないで済むからさ。最近はさぁ、男の子も高く売れるんだよー。あっちでもこっちでも、戦争ばっかりだから。……それに、『お兄ちゃん』、可愛い顔してるし小柄だから、売られても、奴隷にならずに済むかもね。変態ジジイに可愛がられる方で、引き取り手あるかもよ?」

…………その時、セツナが零した溜息は。

子供が語ってみせた、このままでは、売られるか、殺されるか、二つに一つ、と云った、『運命』に対するものではなく。

その話、マクドールさんが聞いたら多分、怒るなんてモンじゃ済まないから、マクドールさんの前では言わないでね……? ……との思いが零させた溜息だったのだけれど。

そのようなことが、子供に察せられる筈もなく。

セツナの溜息を耳にした子供は、セツナの『落胆』を、自分にとっては笑い事、と受け取ったのか、一層、饒舌になった。

「…………ねえ、君。歳幾つ?」

故に、奴隷だの変態ジジイにだの、なんて今の台詞、マクドールさんの前で言ったら、君が子供でも容赦して貰えないよ? と内心で思いながら。

ふと、某かを思ったのかセツナは徐に、子供の歳を尋ねた。

「……十ニ」

「え? そうなの? もっとずっと、小さいかと思った」

「余計なお世話だっての。……三年前、赤月帝国が滅びる戦争があって、その後直ぐ、トランの北側の領土巡って、トランと都市同盟との戦役があって。今はデュナンで同盟軍とハイランドが戦争しててさ。この五、六年、戦いがなかったことなんてないんだ。帝国時代のお貴族様じゃあるまいし、食べる物だって碌になかったんだから、仕方ないだろっ」

すれば子供……否、少年は。

ふて腐れたように吐き出し。

「だから……山賊の仲間なんてやってるの?」

「悪いかよ。こうするのが一番手っ取り早かったんだから、いいだろ、別にっっ。何やったって、食べて、生きていけりゃいいんだからっっ。しょうがないじゃないか、行き倒れそうになってた俺のこと、助けてくれたのがここのお頭だったんだしっっ。ワケわかんないトコになんか売られなくなかったから、取り入るのに必死で、気が付いたらこうなってたんだよっっ。上手く立ち回ってりゃ、重宝がって貰えるし、俺は食べるのに困らないからっ」

生きる為に、この仕事をやっているんだと、彼はセツナに向かって訴えて来た。

「食べるのに困らないから、ねえ…………」

「…………あんたにゃ判らないかも知れないけど。俺は、父ちゃんや母ちゃんみたいに、戦争の巻き添え喰らって死ぬのも御免だし、飢え死にだなんて惨めな死に方するのも御免なんだよ。皆、自分が生きてくのに精一杯なんだろっ? だったらいいじゃん、別に。俺だってそうするだけだよ、他人のことなんて、構ってらんない」

「判らない訳じゃないよ。誰だって、ひもじいのは嫌だし。まあ……いいと思うよ、君がそれでいいのなら」

「……何だよ、判ったような口聞いちゃってさ。俺の機嫌取ってみたって、何も変わらねえよっ」

彼が、訴えて来たことを聞き終え、軽く首を傾げながらセツナは淡々と言ったけれど、結局の処、何を言われても、少年は気に入らぬようで。

終いには、語気強く吐き捨て、不機嫌そうな足取りで、その部屋より出て行った。

「…………気持ちは判るんだけどねえ……。僕は単に、運が良かっただけだから」

バシンっ! と乱暴に扉を締めて行った子供が去った後。

困ったような顔をしながら、ぽつり、セツナは呟いた。

「でも、それとこれとは別問題だし。……そーゆーことなら、遠慮なく」

──が、困惑を彼が浮かべていたのは、一瞬のみで。

にこぱっ、と笑顔へ表情を移し変えると彼は、ぶつぶつと、口の中で何やらを呟き始め。

「……開かれし門」

蒼き門の紋章が司る魔法の一つを呼び出す、詠唱だったらしいそれの最後、秘術の名をはっきりと音にして、唇を閉ざした。

「…………さてと。逃げ回るだけで、どれだけ時間稼げるかなー」

異界より呼び寄せた魔法の力で、盛大に、扉をぶち破り。

手は縛られてるけど、足は自由だもん、とセツナは、自ら生んだ瓦礫を乗り越え、タッ……と、薄暗い廊下を走り出した。