「…………相変わらず、溜息を付いておられますね、貴方」

────それは、真夜中のことだった。

その広間を守る兵士達も、行き交う女官達も、息を潜めて久しい、そんな時間のことだった。

気が付けば、寝室から消えていた夫を探して、城内を彷徨ったアイリーンは。

三年前は、皇帝の座す玉座が在った……そして今は、トラン共和国大統領の椅子の在る、このグレッグミンスター城の、大広間で夫を見付けた。

もう、灯も落とされているが故、視界は悪く、初冬の季節故に、広々としたその空間は、大陸の南に位置するトランと言えど寒く。

夜着の上に部屋着を一枚羽織っただけの姿で彷徨くには、誠、相応しくないのに。

夫、トラン共和国初代大統領レパントは、薄着のまま、ぼんやり、と云った風情で、大統領の椅子を眺めていたから。

…………溜息さえ零して。

だから彼女は、そんな声を掛けた。

けれど、夫からの応えは返らず。

「何か、お悩みですか? この処、貴方を煩わせていた例の者達の件は、もうお気にせずとも宜しいでしょうに」

彼女は、更なる言葉を掛けた。

「………………なあ、アイリーン」

すれば、漸くレパントは、振り返らぬまま、言葉を発し。

「何ですか? 貴方」

「お前も聞いたろう? 先日の、バナー鉱山跡での話を。…………お前、どう思った?」

「……どう、とは?」

「デュナンのセツナ殿達や、カナタ殿と別れた後。鉱山跡の廃屋を改めたバルカスの話では、少々、な……。事の成りゆきは、『凄惨』だった……との報告だったろう? ──それに付いて、兎や角言うつもりなど、儂には欠片もない。唯、カナタ殿が『武』の道を深められたのは、誰が何を思おうとも、変わらん事実なのだろうな、とな……。それを感じて、止まない」

「そう……なのでしょうね、恐らく」

────あれから、三年が経って。あの方は、又、道を進まれて。………………三年前。あの時。何が遭ってもこの椅子に、カナタ殿を座らせてしまうのが、本当は一番、正しかったのではないかと……、バルカスの話を聞いていたら、そう思えてならなくなった……」

ぽつり、ぽつり、と。

アイリーンを振り返ることなく、薄い闇の直中、トラン共和国大統領の椅子のみを見詰め。

レパントは、呟きを続け。

「……貴方…………」

それを聞いていたアイリーンは、何をどう言ったらいいのか判らぬ風に、夫を呼んだ。

「あの方は、何処に行くのだろう……。何処を、目指されているのだと、お前は思う? 何をされようとしているのか…………アイリーン、お前には判るか……? ────叶うなら。……決して叶わずとも、叶うなら。三年前、あの戦いが終わった、あの夜に。カナタ殿を、この椅子に座らせてしまいたかった。何処にも行かせず。『人』の手の届かぬような場所など、歩ませたりせず。………………儂は、そう思う…………」

──レパントは。

一層トーンを低めて、想いを語り。

「…………貴方。貴方も、聞いておられるでしょう? 『今』の、あの方の話を。クレオさんや、バルカスや。皆の話を。だから……きっと、大丈夫ですよ。あの方には、セツナさんがいらっしゃるから……って。皆、そう言っているではないですか。…………だから、貴方。もう、お休みになって下さい。こんな所に何時までもいたら、お風邪を召されてしまいますよ?」

アイリーンは、夫の背中より、目線を逸らして。

ゆるやかに、そう告げた。

「……『幸せ』だと……良いのだがな。カナタ殿も。誰一人として叶わなかった、カナタ殿の『傍』を占めていると云う、セツナ殿も」

だからレパントは、ようよう、妻を振り返り、歩み寄り。

最愛の妻の、肩を抱くようにして歩き出し、底冷えのする大広間を後にした。