先週、トラン共和国の更に南に位置する、船を使わなければ決して辿り着けない群島諸国連合を訪れて成した交易の仕事が、思った通り、上々であったことに満足を覚えながらも。
四捨五入したら四十になってしまう体から、長の船旅の疲れが抜け切らぬのを、胸の中でだけ嘆いて。
歳かな……と。
柄にもないことを思いながら、水門の街ラダトの自宅の二階で、気乗りしなさそうにシュウは、手にしていた帳面を放り投げた。
ふ……と溜息を付き、仕事机の傍らに置かれた、冷めた茶へと手を伸ばせば。
計ったように、応えも乞わず、不躾に、部屋の扉は開けられ。
「…………未だ、疲れたような顔をしている。鍛え方が足りぬのではないのか」
入って来た男に彼は、呆れたような口調で言い放たれた。
「生憎と私は、得物を振り回して生計を立てている訳ではないのでな。私の仕事は、筆を持ち、算盤を弾き、帳面を付け、値切りの交渉に勤しむことだ。そちらと一緒にされては困る」
穏やかな、夏の日の午後でも、動く度、ガシャリと鳴る程無骨で、そして長い剣を、体の一部であるかのように、腰からぶら下げている相手──ルカを、座ったまま見上げ。
フン、と、鼻白みつつ、シュウは言う。
────八年前、セツナが姿を消してしまって、それより、約一年程が過ぎ。
王制だったこの国が、共和制へと移行する為の支度も何とか整って、全国民の投票による大統領選挙が実施され、テレーズがその座に就任したのを機に。
私は、国王陛下の宰相だったのだから、その私が何時までも、この城に居座っているのは、と皆に告げて、シュウはさっさと、引退してしまった。
引き止める声も、無論あったけれど、それ等に耳を貸すことなく彼は、静かな生活に戻ると言わんばかりに、ずっと所有し続けていたラダトの自宅へ戻って、暫くの間、隠者のような生活をし、その後、交易商の仕事を再開した。
けれど彼のその商売は、統一戦争が始まる頃程、手広くはなく。
己と、己の『周囲』が、食い扶持に困ることなく暮らしていければそれで良い、と暗に語っている程度のもので。
彼の家を切り盛りする使用人達の数も、決して多くはなかった。
…………多分、その現状は。
本当にもう、静かに暮らしたいだけなのだ、という彼の願いが齎したものであり、彼と共に在る、『男』の存在が、齎したものでもあるのだろう。
その話は、疾っくの昔に『過去』となってしまったから、今更多くは語らないけれど、あの戦争の始まりの頃、確かに、セツナやシュウ達同盟軍が、必ず倒さなくてはならなかった相手、けれど今では、その頃の面影一つすら残っていない『彼』、それに。
シュウの今は、定められたと思える。
……愛してしまった人。
愛して止まなくなってしまった人。
幼い盟主に、その命も運命も拾われた人。
自分の傍にいると、そう言ってくれて、引退し、デュナンの城を去る時も、そうするのが当たり前だと言わんばかりにラダトへ付いて来て、それ以来ずっと、護衛の仕事を建前に、共に暮らしている人。
その人の為に。
「で? 何の用だ? 私のひ弱さを、揶揄しに来た訳ではないだろうに」
──だから。
他人には、冷たく聞こえるだろう口振りで、けれど眼差しだけは穏やかに、シュウは、ルカを見詰めた。
「当然だ。お前のひ弱さなどからかってみた処で、何の足しにもならん」
付き人のような、用心棒のような、そんな立場が建前なのに、その建前を全て覆すような態度で、けれどシュウ同様、彼を見詰める眼差しだけは穏やかに、が、直ぐさまルカは、顔付きを変える。
「…………どうした」
「群島から帰って来たばかりだと言うのに、来週にはもう、ハイイーストまで仕事で出向くつもりだと、お前がそう言うから。話を集めてみた。……喜ばしくない話が出て来た」
ルカが顔色を変えた意味を、即座に汲んでシュウが問えば、誠、重々しく。
嫌な話が、とルカは言い始めた。
「ハイイーストより伝わって来た噂。お前の顔色。……動乱でも?」
「ああ、そんな処だ。未だ、起こってはいないらしいが。ハルモニア神聖国の辺境軍が、何やら姦しいそうだ。手先と思しき連中が、あの辺りで見掛けられるらしい。それに影響されてか、工作でもされたか、未だにハイランド皇国再興を願う輩も、活気づいている。…………どうする?」
「どうするもこうするも。だからと言って、予定を変えるつもりはない」
……丁度、時同じくして。
デュナンの城で、テレーズとクラウスが同じ話をしているとは流石に思わず。
ルカの話を聞き終えても、シュウは態度を移ろわせずに、掴み掛けたままだった、冷めた茶碗を取り上げた。
「…………いいのか? それで」
「当然だろう? 私はもう、この国の宰相ではない。只の、交易商だ。……儲ける為に、何処で何をしようと、商人の勝手だ」
「成程。…………いいんだな? それで。まあ、お前が行くと言うなら、俺はそれに従うだけだが」
「そちらこそ。いいのか? それで」
「……余計な世話だ。──そのような、冷めてしまった不味い茶など飲まずに。淹れ替えて貰ったらどうなんだ」
ハイイースト県──元・ハイランド皇国の領土に、『それでも』行く、と告げ、逆に、いいのかと問い掛けて来たシュウへ、ルカは肩を竦め。
嫌そうに、シュウの手の中に収まった、冷めた茶碗を見下ろした。
────その年の夏の、と或る晴れた日。
デュナンの城と、ラダトの街で、人生の一時期、デュナンを統一した同盟軍の一員として生きていた者達が、漂い始めた新たなる戦いの匂いに、又、人生の一時期を、投じようとしていた。
そうして、それから二週間程が過ぎて。
戦いの匂いが、本当の戦いへと昇華されてしまう前に、叶うなら……と、そう思っていた人々の、願い虚しく。
ハイイースト県──十一年前までは、ハイランド皇国皇都・ルルノイエ、と呼ばれていた街にて、十一年振りに、戦いの火の手は上がった。