何時になったら、トラン共和国大統領を引退しようかと、最近ではそんなことばかりを考えるようになったレパントは、その日も、己の後任のことばかりを考えて、時を過ごしていた。
以前、彼が思い描いていた筋書きは、五十の声を聞く頃に、政治の世界から引退して、後続に道を譲り、愛妻・アイリーンと共にコウアンの街に戻って、のんびり余生を送る、というそれだったのに。
気が付けばずるずると、もう、予定より七年も余分に、彼はトラン共和国大統領を、務めてしまっていた。
無論レパントとて、これまで幾度となく、引退したいとか、若い者に席を明け渡したいとか、何時までも年寄りがのさばっていてもとか、周囲の者達に訴えては来たのだけれど、「もう少し、もう少しだけ」の声を断ち切りきれなくて。
若者達がもう少し、政治の世界を良く知るまで、の言葉に、言い返すことが出来なくて。
気が付いたら、もう、齢五十七だと言うのに、大統領の椅子に座り続けている己が、酷く物悲しい人間と、最近のレパントには思えて仕方なかった。
だから、ここの処彼は、引退したい、引退したい、と口癖のように、愛妻へと訴える機会が多くなって。
アイリーンは、そんな夫を慰めるように、宥めるように、これまで以上の労りを見せ、そして、影ではこっそり。
側近の者達や、今でも尚、将軍職を務めてくれている、アレンやグレンシールに、次期大統領選出の為の選挙の支度を整えることは出来ませんかと、それとなく、尋ね歩いていた。
…………が、そんな折。
ロッカクの里の者達より、隣国デュナンにて、ハイイースト県を中心とした動乱が勃発した、との報告が、グレッグミンスターの大統領府に齎された。
あの戦争の最中交わされた、デュナンとトランの同盟関係は、デュナンが王国と定められても、共和国へと移行しても、変わることなく続いている。
故に、デュナン国ハイイースト県にて動乱勃発、の報を受けた時、デュナンより求められた場合は、それなりの手を貸すべきだ、との意見が軍部より上がった。
けれど、此度の動乱の仕掛人が、ハルモニア神聖国であると知った重鎮達の中には、デュナンの動乱に積極的に関わることを、良しとしない意見の者達も少なからずいたから、暫くの間は、静観しているのが吉だろうと、レパント達はそんな結論を、トラン共和国の意向として、決定し掛けた。
しかし。
動乱の噂を聞き付けて、トランの組織に属する者としてではなく、個人的に、あの国へ手を貸したい、と言い出した、デュナン統一戦争を良く知る者達が現れた為。
トラン共和国の公の立場は、未だ保留とされるだろうけれど、個人的な助成にまで、あれこれ拘束を掛けるつもりはないと、レパントはあっさり、人々の願いを許した。
──トラン解放軍を率い、自分達に『夢』を見せて止まなかったあの彼が、本当に本当に『大切』にしていた少年が打ち立てた、国の大事だ。
彼が『大切』にしていた少年の愛した、彼自身とて、何らかの想いは注ぐだろう国の大事なのだから。
トラン共和国大統領との地位にさえいなければ、己とて、老骨に鞭打ってでも、助成の一つや二つ、そう思うのに。
あの彼を、『幸せ』にしてくれるだろう少年の国の為に、そう思うのに、…………と。
レパントは、デュナンへと旅立って行こうとしている者達を見送りながら、その願いを託した。
これは、困りましたねえ……と。
この数日は、刻々と報告が届けられるようになった、ハイイーストにて起こった動乱の仔細に。
ミューズ市々長のフィッチャーは、何時だって飄々としていて、少しばかり軽そうに見えて、何を考えているのか良く判らない、と評される表情を湛える面に、翳りを落とした。
少し前、勃発してしまった件の動乱は、大統領府の者達が考えていたよりも遥かに、手を焼く代物だった。
過去の亡霊にしがみつくように、あの戦争から十年以上が経った今でも、皇国復興を企む元ハイランド貴族達の集まりなど、取るに足らない、とのそれが大方の見方で、フィッチャーも、動乱が始まってしまったばかりの頃は、そう考えていたのだけれど。
背後にあると囁かれ、そして確かにあると判ってはいたハルモニア神聖国辺境軍が、表立って動乱に関わって来た辺りから、戦況は少しずつ変わり始め。
半月程が経過した今では、どう鑑みても、デュナン国軍の方が旗色悪し、としか、フィッチャーには評せなかった。
──同盟軍に属していた者達を筆頭に、建国の意気に燃えて、国王となってくれたセツナの下、デュナンの国を起こして、それから未だ、十一年と少ししか経っていない。
セツナはもういなくなってしまったけれど、未だ未だこの国は若く、今以上に素晴らしい国へ、と思う者は数多おり、統一戦争をその身で知っている者達も多いから、国自体の士気も、国軍の士気も、低い筈などなく。
けれど、激しかった戦争を経て、一昔前に出来たばかりの国の軍が、辺境軍と言えど、数百年の歴史を誇る、軍事的にも大国であるハルモニアのそれと向い合うのは、分の悪過ぎる話だった。
余りにも、国力が違い過ぎて。
だから、これ以上ハルモニアに本気になられたら、それこそ、大人と子供の喧嘩と化してしまうかも知れないと、フィッチャーは懸念していた。
今は滅した皇国で、貴族として生きていた連中はきっと、『後のこと』など、碌に考えてもいないのだろう。
ハイランドが存在していた頃のように、自分達が贅沢に生活して行くに困らぬだけの領地を得て、きらびやかに生きて行ければ、それで良いのだろう。
かつての祖国の領土を、ハルモニア人達が、どのように踏みにじろうとも。
その果て、属国と化そうとも。
己達の懐のみ暖かく、貴族の地位を取り戻せれば、それで。
…………この動乱が、最悪の事態を迎えて、北の大国が、デュナンの全てを求めるようになっても。
彼等はきっと、意にも介さない。
「自分で想像したことながら、胸糞悪くなる、ってトコですかね。…………冗談じゃない。この国は、セツナ様の下、私達が、私達の為に、私達自ら戦って、手に入れた国なんですよ、ハルモニアの連中の、好きになんて」
────戦いの報告より想像してしまった最悪の結末に、目許に浮かべた翳りを一層濃くして、フィッチャーは心底嫌そうに、書類の束を押しやった。
「さーて、どうしますかねえ。私も一度、デュナンの城へ顔を出した方がいいかな。……それとも」
そうして彼は、独り言を零し。
うん、と自身に言い聞かせるように頷いてから、押しやったばかりの書類を取り上げ。
「誰か−。船ー。コロネに先触れ出して、船用意して下さいー」
市長室を出、廊下を歩きながら、大声を放った。