青葉が目を癒す初夏の一日、シュウは、ミューズ市にいた。
秋の実施を目指している大統領選挙に関する打ち合わせや、各市との調整の為の滞在だった。
その滞在には、要職にある者達を幾人も引き連れて来ていたし、旧都市同盟領の各市は協力的以前の問題なので、そちらに関しては安心していられたが、旧ハイランド領──現ハイイースト県との調整だけは、自ら出向かなくてはならないだろうな、と彼は定めており、その手配も整え済みだった。
────シュウに言わせれば、「こうなった今では、小憎らしいとしか言えない国王陛下」と相成るセツナの主義主張の一つが、『罪は、生きて償って』だったが為に、本来ならば、あの統一戦争で命を落とした筈の、宿敵だったハイランド皇国の者達が、幾人かシュウの配下にはいる。
ハイランド第三軍の軍団長とその軍師だったにも拘らず、同盟軍の一員として迎え入れたキバやクラウス親子に、止めを刺さずに見逃し、その後、恐らくは『この騒ぎ』をも見越して半ば強引に臣下の列に加えてしまったクルガンにシード。
…………それに、「シュウさんの幸せの為。シュウさんの大切な人」と、きっぱり言い切って、仲間達さえ騙し通し、命を救ってみせたルカも。
身分を捨て、名を捨て、過去すらも手離した彼等──旧ハイランドに於ける勝手を良く知る彼等がシュウの後ろには控えているから、デュナン王国が発足した当初の予想よりは遥かに、ハイイーストに関することも上手く廻っているけれど、こればかりは自分が……、とシュウは思っていた。
勿論、彼が自らハイイーストに赴くことに、反対した者は多かった。
終戦から四年が経った今も尚、かつての同盟軍正軍師を恨んでいる者は少なくなかろうから。
今、宰相に何か遭ったら、選挙処の話ではなくなると、皆、口々に再考を求めた。
だが、恨まれているのは誰もが同じだと、シュウは聞く耳を持たなかった。
あの戦争が生んだ恨み辛みを気にしてみても始まらない、恨まれるのが当たり前、戦争とはそういうものだ、そんなことよりも、話を進める方が先だ、と。
故に、もう、これは梃子でも動かない、と人々は彼の説得を諦め、が、その代わりに、『腕前』に関しては絶対の保証持つ『護衛』を伴うことを承諾させた。
現在はハイイーストの県都とされているルルノイエへ発つ前夜、ミューズ市庁舎の貴賓室の一つにて、シュウは、書類を手にしつつも目線を漂わせた。
強い光を放つ灯火の下でも、綴られた文字が能く見えなかった。
霞んで行く一方の文字を何とか見据え、漸く、自分も疲れている……、と認めたものの、疲れた、の一言で済まされる筈もないと、彼は、ひと度書類を手離し、座していた書き物机より立ち上がる。
少し外の風にでも当たって、序でに顔でも洗えば、もう少しくらいなら働けるだろうと思った。
「こんな夜更けに、何処に行く」
しかし、部屋を一歩出た途端、夜更けだからこそ、その部屋を訪れようとしていたルカと鉢合わせ、咎められた。
「風に当たろうと思っただけだ」
「その前に、寝ろ」
「悠長に寝ている暇などない」
「……寝ろ。ハイイーストに発つのは明日──否、もう今日だぞ。……案の定だ。お前のことだからと思って来てみれば」
「そんな暇はないと言っている。眠るのは、ハイイーストへの道中で充分足りる」
「………………ほう」
部屋着を着込んではいるが、腰に剣は帯びているそちらに説教など垂れられたくない、同じ穴の狢だろうに、と言ってやりたくはあったが、嫌味を浴びせ掛けてやる気力が湧かず、最低限の言い返しだけをしたシュウを、ルカは、片眉を跳ね上げながら見下ろして、
「情けない顔色のくせに、能く言う。……今ならば、未だ取り返しが付くが、どうする? 俺の言葉に頷くか? それとも我を張り続けてみるか? 自ら眠るのと、気を失うのと、どちらがいいか直ちに答えろ」
市庁舎の廊下の直中で、手加減なしに彼の二の腕を掴み、頤も、酷く荒っぽく掴んで上向けさせると、真顔で、二つに一つだ、と迫った。
「…………前者、だな」
この男がこう言い出した以上、逆らえば、本当に当て身の一つも喰らわされると、諦めたように告げてから、シュウは、二の腕と頤に絡み付いた手を振り払う。
「最初から、物分かり良くしていればいいものを」
「ふざけるな」
彼が休息を受け入れた途端、ルカの機嫌は良くなったのか、腕を振り払われたことには何も言わず、逆にシュウは、不機嫌を露にしながら出たばかりの室内に戻ろうとし……、そこへ。
「シュウ宰相」
未だ若年らしいミューズ市の文官が、紙束を手にやって来た。
「何だ?」
「こんな時間に申し訳ありませんが────宰相殿!?」
紙束は、どう見ても書類の束で、体ごと文官へと向き直り様、シュウはそれを受け取ろうとしたが、そのまま彼は、前のめりに倒れ掛け、慌てた青年を尻目に、ルカは、無言でシュウを支える。
「あの……宰相殿は、お加減でも……?」
「…………いや。躓いただけだ。驚かせたならすまない」
何事かと、どうやら単なる使い走りらしい青年は彼を案じたけれど、シュウは彼を誤魔化した。
「シュウ宰相。もう、部屋に戻られるのが宜しかろう」
「あ、そうですね……。申し訳ありませんでした、出直します」
ルカも、極力さりげなく彼を支えたまま、当たり障りなく彼を部屋に押し込めようとして、躓いただけにしろ、何となく気まずい……、と青年は足早に去って行った。
書類も渡さずに。
「……だから、寝ろと言ったんだ」
「……彼に告げた通り、躓いただけだ」
「お前な……」
──文官の彼が去るのを待って、今度こそ中へとシュウを放り込んだルカは呆れた風になったが、宰相殿の口先は何時も通りで、ルカは、やれやれ……、と首を振ったけれども、意地を張り通せたのはそこまでが限界で、部屋の扉が閉ざされた途端、シュウは覚束ない足取りで向かった寝台に倒れ込んだ。
「大丈夫なのか」
「決まっている。駄目だなどと、言える訳がない」
「…………何か遭ったか」
「……少し……だけ。…………ティントが、な。今回のことには全面的に協力してくれているが、どうやら、独立する腹積もりらしい」
「成程。既に始まっている下馬評通りなら、テレーズ・ワイズメルが大統領の座に就くだろうからな。そうなれば、グラスランドとやり合い続けたいのが本音のティントとしては、気に入らんだろう」
「話し合った処で、本当にティントが独立する気なら止める術はない。最善の道は、独立後のティントと同盟を締結させることだ。だが、今、独立される訳にはいかない。何も彼もが一からやり直しになる処か、最悪は、再び戦だ」
「その意見には同意してやるが。それとこれとは話が別だ。全て、夜が明けてからにしろ」
身を投げ出すように転がってしまった彼の衣服を一枚一枚剥いで、夜着も着せてやり、毛布を掛けてやってから、自らも薄物を羽織っただけの姿になって、ルカは、シュウに添い寝をしてやる。
交わすやり取りは、艶事とは程遠いそれだったが、それでもルカは、本当に緩くだけシュウを抱き、抱かれた彼は、大人しくされるに任せた。
「無責任に国を放り出したと思っている者もいるが、お前は承知だろう。あの二人も、自分達に出来る限りのことをしてから逃げ出したのだと。後に起こるだろう騒ぎも粗方見越していたようだし、荒療治をしてしまえ、くらいのつもりでいたのだろうが、彼等も、ティントの独立問題は計算外だったのだろう。……その所為で、余計な、しかも大きな仕事が増えて……──」
「何だ?」
「……正直、私自身の予想よりも、恐らくは彼等の予想よりも、事を運ぶのがきつい」
そうと知る者は数少ないが、私的には恋人である男の腕の中で、漸く、シュウは本音を洩らす。
「素直に、最初からそう言え」
やっと聞けた吐露に、ルカは再び心底呆れて、部屋の明かりを落とした。