少々長い列の後方部から、前を行く二頭立ての馬車を眺めて、突然、ルカは盛大に顔を顰めた。

思い出すなどとは思ってもいなかった遠い昔を、余りにも唐突に思い出してしまったから。

────朝早く、ミューズ市を出立してより数刻が過ぎた昼下がり。

正午の休憩を終えて、改めての出立より程ないその頃も、列は、恙無く進んでいた。

徐々に関所は近付き、街道の石畳にも粗が目立ち始めたその辺りには村落もなく、見渡す限りの平原があるばかり。

季節は初夏で、ルルノイエへ至る数日の旅をするにはこの上ない天気で、風景の何も彼も、長閑の一言で言い表せたが、ルカにとってはそうではなかった。

…………未だ、彼が十代になったばかりの頃。

もう、二十年以上も前のこと。

幼かった彼と、当時は彼の中でも確かに父だった、かつてのハイランド皇王アガレス・ブライトと、母のサラと、ミューズで行われた式典に列席した帰り道…………帰国の途に着いたその日に、悲劇的な出来事が彼等親子を襲ったのは、丁度その辺りだったから。

その瞬間まで確かに幸せだった親子の運命を変え、彼の運命を変え、やがては、デュナンの大地の運命も定めることになった、あの出来事。

……それを、本当に、ふ……、とルカは思い出してしまった。

疾っくの昔に捨て去った筈の、思い出したくもないことなのに。

シュウが乗り込んだ、先行く馬車の背を馬上より見守っていたら、この街道を、ああして馬車に揺られながら自分達親子も辿った際の、楽しくて、幸せだった時間が記憶の底から甦って、そうしたら、必然的に、あの出来事が。

丁度、この辺りを通りすがった時だったことも、あの季節も、空の模様さえ。

…………そう、胡乱と化させて流し捨てた『過去』の全てが、本当は、未だにこの胸の奥には潜んでいるのだと言わんばかりに、余りにも鮮明に思い出されて…………──────

「……もう、過ぎたことだ」

けれども。

顔は顰めたまま、ルカは、強く手綱を握り締めて、幾度も首を振り、亡霊のように甦ってきたそれを、何とか遠ざけようと努めた。

……忘れた筈のこと。三年彷徨い続けた『世界』に捨ててきたこと。二度と思い出さぬと決めたこと、と。

しかし、思い出も、記憶も、確かに、そして秘かに、息を殺しつつもそこに在り。

鐙で馬の腹を蹴って、ルカは、シュウの馬車を取り巻く兵達を追い抜いた。

今直ぐに彼の顔を見詰めれば、遠い昔が薄らいでくれると思った。

だから、馬の脚を速めて馬車と並び、伸ばした腕で、コツリと小さな窓を叩いた。

「何か?」

聞き取れるかどうかの力加減だったが小窓は直ぐに開き、顔覗かせたシュウに、車輪の音にも風の音にも負けぬ声で、彼は問い掛けられた。

「……いや。何か、という訳でなく」

「用も知らせもないのに……────。…………ルカ殿。列を停めさせてくれ」

顔が見たかっただけで、用などある筈もなく、かと言って、そのようなこと素直に告げられずにルカが言葉を濁せば、不機嫌そうにしつつもシュウは、余所行きの態度で停まれと言った。

「おい! 停めろ!」

言われたからにはと、更に馬を進めて先頭に出た彼は、命じられた通りに成す。

「どうかしたか」

「酔った」

「お前が? 馬車にか?」

「悪いか?」

「いや、別に」

そうして直ちに取って返し、軋む馬車の扉を開けてやれば、何を考えているのか読めない顔で降りて来たシュウに、予想外のことを言われて、ルカは面食らった。

数年程前までは、手広い商いをしていた交易商だった彼のこと、類を問わず乗り物には慣れているだろうに、乗り物酔いをしたなどと、陳腐な言い訳にも程がある、とも言い掛けたが、この男は、諸々を無駄に知り過ぎてもいるから、己の不甲斐なさを勘付かれたのかも知れない、と思い直して、

「なら、少し休め」

「言われるまでもなく、そうさせて貰う」

可愛げがあるようで無く、無いようである、宰相殿の仰せの通りに、とルカは、列を僅かだけ街道より外れさせる。

留まったまま往来を占める訳にはいかぬからと供達を急かして、宰相閣下の体調不良が理由の休憩も告げて、はたに疑われぬよう気を遣いつつ、シュウの手を引き列よりも離れた。

そうされても、腰でも下ろしていろと言われても、シュウは逆らわず、沈黙と共に見詰めてくるのみで、だからと言って、己にも告げるべきことはないと、ルカも無言を返した。

先程、正午の休息をしたばかりだけれども、悠長な旅などしていられぬと主張したシュウに言われるまま、ミューズの者達が組んだ旅程は強行軍に近かったから、供の者達も、不意のひと時に安堵している風で、日没までに関所に着ければいいのだから……、との小さな声も聞こえてきて、「少し、旅の足を緩めても良いか……」と、ルカは考えた。

風景も、光景も、空も、風も長閑で、本当に長閑で、そのくせ、遠い昔を引き摺り出そうと仕掛けてくるが、あの頃とは違う、今はあの頃ではない、その証拠に傍らにはこの男がいる、と感じられたから。

…………そう、幾ら、過去を振り返ってしまったとは言え、かつては確かに『ルカ・ブライト』だった彼ともあろう者が、そんな風に思ってしまうくらい、その場を包む何も彼も、長閑で、牧歌的でもあった。

折しも、彼等一行が譲った街道を、関所の側からやって来た何処の国かの商隊の列が、商売道具やら商品やらを山と積んでいる様子の、幌もない粗末な荷馬車を、手子摺っている風に押したり引いたりしている様を眺めながら、ルカも、恐らくはシュウも、今暫くはこうしていよう、と佇み続け。

「ん……?」

目で追った商隊の列に、ふと違和感を感じて、ルカは小さく洩らした。

「どうした?」

「あの列…………」

────積まれた荷の嵩の割には、荷馬車の車輪の沈みが少ない気がした。

織物のような軽い物ばかりが積み荷だと言うなら納得出来るが、だとするなら、ああも、荷運びに難儀する必要はない筈だった。

二桁は、男達の頭数を揃えている商隊なのだ、力も人手も足りぬとは思えなかった。

……だから。

何も言わず、ルカはシュウの肩を引き、己の背で庇うべく下がらせ、腰の剣の柄に触れた。

その直後、商隊の列は停まり、長閑なだけの平原には似合わぬ物が光った。

商隊──否、商隊だった筈の列に付いていた男達が抜き去った剣が、初夏の日差しを弾き返した故に生まれた、硬質な光が。

そうして、その更に直ぐ後には。

戦場いくさばに轟く、鬨の声に能く似たそれが上がった。