あの夜までの自身が葬り去られるのを受け入れて、湖畔の古城で日々をやり過ごす内に、ルカは、ルカ・ブライトではなくなった。

デュナン統一戦争に終わりが告げられた時には、既に別人だった。

それより三年が過ぎ、彷徨い続けた世界より湖畔の城へと舞い戻った際には、纏う雰囲気も、他人への接し方も、かつての彼からは程遠いものになっていた。

三年分の齢も重ねていたし、髪の形も少し違っていたし、所作も、体格さえも、遊歴の剣士以外の何者でもなく、彼の昔を知る者は皆、ルカ・ブライトは本当に死んだのだと、書物にのみ綴られる歴史の中に消え去ったのだと、心から信じた。

なのに、終戦から四年と少しが過ぎた今、葬り去られた筈の、悪鬼羅刹の如き狂皇子が、シュウの目の前に甦っていた。

ジョウストン都市同盟と、そこに住まう全ての者達を、全身全霊で憎み続け、思うがまま、望むがまま、邪悪で在ろうとした男。

何百、何千と、それを成してきた己には、目を瞑っていても仕損じること有り得ない、と豪語したかつての自身の言葉通り、雑作もなく首を刎ね飛ばした男達の血潮を浴びて、全身を濡らすソレが。

…………ソレ──ルカ・ブライトを、シュウは黙って見詰めた。

見上げられた彼も、何も言わなかった。

拵えたばかりの骸の山も、シュウも見遣ろうともせず、酷く歪んだ嗤いを頬に浮かべ、異様なまでに爛々と瞳を輝かせて、無言のまま振り返り、未だに僅か残る襲撃者達へと彼は向かい始める。

「あ…………」

いとも容易く斬り捨てた者達の返り血を滴らせながら、一歩、又一歩と近付いてくるソレの姿に、男達は声も出せずに腰を抜かした。

地べたに這い蹲う彼等が、そろそろとソレに向けた瞳も顔も、恐怖に塗り潰されていて、歯の根は合わず、カチカチと耳障りな音を洩らす口許から溢れた一言は、命乞いだった。

「助け、て……」

「…………こ、殺さないでくれ……っ」

掠れた小さな声ながらも、憐れなまでの懸命さが籠っていた彼等の哀願は、シュウの耳にも、ソレの耳にも届き、

「ふ……。ふはははははははははははは!!!」

途端、ソレは、甲高く嗤った。

「助けろ? 殺さないでくれ? ……それだけの価値が、貴様達にあるとでも言うのか。ブタ共にも劣る蛮族が。俺を、楽しませも出来ぬのに」

愉快で愉快で堪らない、そんな風に大きく体を揺らしつつ嗤い、嘲るように吐き捨てて、剣を肩に担ぎ、

「死────

「殺すな!」

敢えて見せびらかせた剣を、漸う振り上げた彼の前に、シュウが飛び出た。

男達を庇うように身を呈したシュウの首に触れる寸前、薙がれていた剣は留まる。

「……退け」

「断る。──殺すな。もう充分だ。これ以上殺したら取り返しが付かなくなるっ! ルカ・ブライトとして、もう一度死ぬしかなくなるっ!」

「………………黙れ! 俺の邪魔をするな! 退けと言っているだろうっ!!」

「なら斬り捨てろ! 私を!!」

止めはしたが構えは解かず、彼は射殺さんばかりにシュウを睨み、シュウも彼を睨み返し、二人が怒鳴り合い始めた隙に、襲撃者の生き残り達は奇声を放ちながら逃げ出したが、そこへ、街道の石畳を蹴る蹄鉄の音を響かせつつ、四騎の馬が駈けて来た。

馬上の者達──やっと追い付いたクラウス達は、一目で事態を悟り、逃げる男達を取り押さえようとし……、が、彼等が口々に、「ルカ様が、ルカ・ブライトが」と喚いているのに気付くや否や、込み上げてきた、複雑で例え難い感情を無理矢理飲み下して、捕獲を諦め討ち取った。

「シュ────

法に照らすなら捕縛するべき相手を、半ば口封じの為に斬ってしまった後味は殊の外悪く、遣る瀬なさを感じつつも、キバは、揃って返り血を浴びたまま睨み合っている二人へと近付いた。

──キバ。良くやった」

が、シュウへの呼び掛けを遮った血塗れのソレより、ゾ……っとするトーンの、けれど遠い昔には聞き慣れていた声で労いを言われた老将軍は、動くことを忘れ、言葉も失う。

場の有様から、討ち取った者達の喚きから、『そう』なのだろうと思い知らされても、違っていてくれと祈ったのに…………、声は、確かにルカ・ブライトのもので。

向けられた面も、殺戮に溺れていたあの頃の彼そのもので…………。

キバも、クラウスも、クルガンもシードも、……ああ、遅かった…………、と天を仰ぎ、ソレを葬る覚悟を決めた。

敵わぬとも、叶わぬとも知ってはいたが、悪鬼の亡霊が、地獄から這い出るのを許すことは出来なかった。

現世うつしよで生き続けること赦されたのは、ルカという名だけを持つ遊歴の剣士で、ルカ・ブライトではない。

「…………ルカ」

だが。

命を賭して、と思い定めた男達を尻目に、シュウが、ソレの名を呼んだ。

血で濡れたソレの頬に両手を添えて、自身へと向き直らせ、シュウは、ソレ──彼の名を呼び続ける。

「ルカ。……ルカ」

「……うるさい」

「…………ルカ。私が判るなら、私の名を呼べ」

「……お前、は…………。……お前はお前だ。シュウ」

「それが判るならいい。──ルカ。私は生きている」

「だから……?」

「……もう一度言う。ルカ。私は生きている。掠り傷一つない。私は何もされていない。誰も、私には指一本触れていない。お前が私を守ったから」

幾度も幾度も名を呼んで、何時も通りの調子で語り掛けて、彼は、ルカを抱き締めた。

「お前が守ってくれたから、お前に守られたから、私はこうしていられる。お前の手にあるのは、守りたいものを守る強さだ。何年も前に、お前がお前自身で手にしたものだ。今のお前にあるのは、守る為の力と強さと、ルカというだけの名前だ」

抱いた彼の広い胸に頬を寄せて、淡々と、事実のみを告げる風に言葉を吐いたシュウを、ルカは強い力で抱き返し。

「シュウ…………」

震える声で彼の名を呼びながら、掻き抱いた細い躰ごと、その場に踞る。

「……シュウ」

「……何だ」

「シュウ………………」

「だから、何だ。いい歳になった大の男が、だらしのない。──私はこうして生きている。今、この刹那も、私がお前だけのものであるのも変わりない。そして、それを叶えたのはお前自身だ」

痛いまでの力を込めて腕にした彼の肩口に顔を埋めて、ルカはシュウの名だけを呼び、そんなルカのこうべを抱える風にしながらも、何処までも淡々と、シュウが語れば。

静けさを取り戻した、つい先程までは長閑なだけだった初夏の平原に、ルカの叫びが響いた。

慟哭と聞こえる、けれど決して慟哭などではない、獣の咆哮にも似た、血を吐くような絶叫。

そんな叫びが、平原の彼方へ溶け切るまでルカの頭を抱き続け、シュウは、

「クラウス。ミューズに戻る」

自分達を遠巻きに見詰めていた腹心の彼へ、眼差しだけを向けた。