到底、そのままハイイーストへ向かうことなど出来ず、事態に関する報告をさせる為に、一足先にクルガンとシードを向かわせたミューズに、日没過ぎ、シュウやルカ達も戻った。
宰相殿の一行が襲撃されたなどと知られたら大騒ぎになるからと、知らせを受けたフィッチャーが上手く采配をしたし、後始末に関しても、彼とクラウスがさっさと手配を進めてしまって、そういった諸々に口を挟む間も与えられずに、シュウとルカは風呂へと追いやられた。
先ず、その返り血塗れの姿を何とかして、今晩だけでも休むのが貴方達の仕事ですと、フィッチャーにもクラウスにも、キバにもクルガンにもシードにも、きっぱりと言い切られてしまった二人には、彼等の言い付けに従うより他なかった。
ルカにしてもシュウにしても、大人しくして余計なことを考えずにはいられなくなるよりは、体を動かしていた方が楽だ、という口だが、皆の言い付けが、自分達を気遣ってのそれであるのを疑う余地はないし、有り難くはあったし、何週間も続いている激務に覚えさせられていた疲れに例の出来事が相俟って、少なくともシュウは、彼の認識の上では不覚にもドッと来てしまったので、入浴後も皆に促されるに任せ、食事もそこそこに毎度の貴賓室に引っ込んで……、そうしたら、本当に不覚にも、シュウは、少しだけのつもりで横になった寝台から起き上がれなくなってしまった。
「情けない…………」
「情けないも何も。お前がひ弱なのは今に始まったことではなかろう。一日中部屋に籠って、書類だの書物だのと首っ引きになりながら筆を握って、食事も睡眠も何時に済ませているか謎な、不健康極まりない毎日を送っているのだ、軟弱なのも情けないのも当然だな。……だから、少し休め」
ベッドに横たわるしかない今の己を心底嘆いて、額に右手の甲を押し付けつつ天井を睨む彼へ、にべもなくルカは言って、枕辺に腰掛け、額に乗った手を払う。
「随分な言い草だな」
「事実だ。現実を突き付けられたくないなら、寝食を規則正しくし、体を動かすことを覚えろ」
その代わりに、彼は己の掌を当てて、シュウの長い黒髪の解れを、丁重に整えていった。
「……シュウ」
体格にも性格にも似合わぬ、繊細な動きをする指先に髪を弄られて、ほんの僅かだけ嫌そうな顔を作ったシュウは、止めさせるつもりだったのか、ルカの手に己が手を添え、ルカは、平原でのあの最中のように、彼の名を呼び、手を握り込む。
「ルカ」
「何だ」
「……お前にはもう、過去などない。思い出してしまう度に、遠い昔も、遠い昔から続く今の何も彼もを嘆きたくなる想い出も、全てを憎むしかない想い出も、お前にはない」
「………………そう、だな。……俺には何もない。過去もない。嘆くべき昔も、憎むしかない記憶も。お前の言う通り、俺にあるのは、ルカという名だけだ」
強く手を握られ、指には指を絡められ、珍しく、露な躊躇いを見せてから瞼を閉ざしつつ告げてきたシュウを、ルカは身を捩って抱いて、抱いた彼の胸許に面を伏せた。
まるで、小さな子供のように己に縋る彼の髪を、シュウは緩く撫ぜる。
「私の、今の正直な気持ちを言うなら。もう、あんな騒ぎは二度と御免だ。昔に戻ったお前など見たくもない。けれど、お前が、ない筈の過去を引き摺り出さずにはいられないと言うなら、それも又お前だ、私は構わない。もう一度、私がルカ・ブライトを葬れば済む。……が。────ルカ」
「……ん?」
「どうしても、昔が忘れられなくなったら。ルカ・ブライトに戻りたくなったら。その前に、私を殺せ」
「…………言っていることに矛盾があるぞ。そんなことになったら、お前が『ルカ・ブライト』を葬るのだろう? なのに、そのお前を討ったら、『ルカ・ブライト』を止める者がいなくなる」
「そんなことはない。陛下とマクドール殿がいる。私は、『ルカ・ブライト』を甦らせてしまった不始末の責任を取るから、お前は、絶対に帰って来るだろう彼等に殺されろ」
「あの小僧共に負けず劣らず、お前も、存分に惨いことを言う。…………だが。何も彼も、有り得ぬ話だ。俺には、振り回されるような過去がないのだから。存在しないものを基にの話なぞ、語らう価値もない」
「……そうだな。確かに無益だ」
手間の掛かる男だ、と、小さく洩らしながらシュウはルカをあやして、ほんの少しの本音も吐露して、有り得ない話はもう終いにしようと言い出したルカを、彼は寝台の中に引き摺り込んだ。
自ら誘いなどしたら、明日は一日寝込む羽目になると容易に想像出来たが、己が確かに生きていること、ルカのものとして在り続けていること、それを、今宵の内に、手間の掛かる男に判らせてやることの方を、シュウは選んだ。
己達の今を、ルカとシュウの二人が確かめ合っていた頃、朝食を摂った、夜が更けても明かりを灯している例の宿屋の酒場にて、ウィンダミア親子とクルガンとシードの四人は、苦いだけの酒を飲んでいた。
その夜の酒は本当に不味い酒で、けれど、嫌々ながらも流し込み、少しでも早く酔ってしまおうと、一同は努めていた。
「あーーー………………」
なのに、どうしても酒に溺れられなくて、彼等以外の客は消えた酒場の片隅で、シードは卓の上に突っ伏す。
「酔った……訳ではなさそうだな、シード」
「ええ、まあ……。……一寸、ルルノイエの最後の日に、陛下──同盟軍盟主に俺が言ったことと、盟主に言われたこと、思い出しちゃいましてねー……」
「……それは、何です?」
「…………彼等と戦う前に。『あのルカ・ブライトがしたように、全てのものを斬り捨てて進むがいい』、……俺はそう言った。戦って破れた後、『ハイランドを愛してたんだよね、ルカさんを何とか止めたかったんだよね、でも、ルカさんを諌めもせずに、裏切るという形でしかハイランドを守ろうとしなかったのは、罪の一つだと僕は思うよ』、……そう彼に言われた。…………同じだと思ったんだ……。同盟軍の奴等がしてることと、ルカ・ブライトがしようとしてたことは、同じようなもんだと思ってた。目指すものの為に、全てを斬り捨てたがってる連中なんだ、って。……考えたこともなかった。判ってるつもりになってただけで、俺はきっと、本当の意味では考えたこともなかったんだ。同盟軍の連中だって、ルカ様だって、斬り捨てたがってるんじゃなくて、斬り捨てるしかないのかも知れない、って」
どうした、とキバに問われ、項垂れた理由を答えれば、今度はクラウスに問われ、突っ伏したまま、シードは語る。
何処までも苦く。
「…………どうして、あの頃に判ってやれなかったんだろうなあ……。恨み辛みにも、憎しみにも、理由がある筈なのにさぁ……。そんなこと知ってたのに……。何で、ルカ様を止められなかったんだろう……。何で、陛下やシュウ殿みたいに出来なかったんだろう……。……少しだけでも、ルカ様を判ろうとしてたら、陛下やシュウ殿みたいに出来てたら、ハイランドは滅びずに済んだかも知れないのに……」
「……シード。それは、今更言ってみても始まらない」
「気持ちは判るがな。お前が抱えている後悔は、この場の誰にも言えることだ」
あー、だの、うー、だのと呻きながら、後悔ばかりを吐き出す彼に、クルガンは嗜めを、キバは慰めをくれて、
「……歴史に、『もしも』はありません」
静かに、クラウスは言った。
「歴史に『もしも』がないのと同じで、あの頃の私達が、陛下曰くの『罪の一つ』を犯したことも揺らぎません。……でも。ルカ・ブライトは同盟軍盟主に討たれ、ハイランドは滅び、デュナンには新国が興った。……それが、この国の正史とされた以上、首を刎ねられていても不思議はなかった私や父上や、戦没した筈の貴方達が、かつて犯した罪の一つを嘆いたり、悔やんだりすることは許されません。少なくとも、表立っては。……嘆くことも、悔やむことも許されない罪の一つと、秘かに向き合って、陛下が望まれた通り、生きて、償っていくしかないんです。ルカ様がそうであるように。今宵、ルカ様とシュウ殿が、『罪の一つ』と向き合っておられるだろうように」
────そうして、穏やかな口調のまま言い切ったクラウスは、「陛下はあれでいて、とても厳しい方でもあるんですよね」と、肩を竦めつつ小声で洩らしながら、飲み掛けのグラスを置いた。