ぐらんぐらん廻っている、瞳に映る歪む世界に、何とかでも目を凝らせば。
見たこともない部屋の一室であることだけは悟れて、ふぇ……とセツナは、上手く働いてくれない頭を必死に動かして、ここが何処なのかを考えた。
「起きた?」
と、むうむう呻きながら、彼がそんなことをしていたら、傍らから、聞き慣れた人の声が降って来て。
「カナタさん……? ここ、何処ですか……?」
「宿屋だよ。セツナが急に熱出してひっくり返っちゃったから、ここまで運んで来た。……もう、昨日の話だけどね」
あ、カナタさんだ、と。
気配の方に首を巡らせてみたら、柔らかく微笑みつつ、が何処か含んだ言い方をしてみせるカナタにそう告げられ。
ヒク……とセツナは、唇の端を引き攣らせた。
「覚えてる? 昨日のこと」
「…………そりゃ、一応は……。ええ…………」
「そう? 良かった。なら、話は少しは早いかな」
けれど、セツナの顔の引き攣りなどお構いなしにカナタは、『あの』出来事を覚えているか、と問い、問われた当人は、目線を宙に彷徨わせ。
「実はね…………──」
唐突に、セツナが倒れた後の出来事を、枕辺に座って微笑み続ける人は、語り出した。
そうだったんだろうな、とセツナ自身にもそれは判っていたように、昨日、あの商家には、奉公勤めをすることになった少年が、やって来ることになっていて、件の少年は父親と共に、この街の市門にて、商家の遣いの者──例の、他人の話を聞かない質の男──と落ち合う筈だったのに。
遣いの男が、雇い主である女将より聞き及んでいた少年の歳格好と似通ったそれだったセツナと、連れて行くべき少年を取り違えたから、ああなってしまったのだ、と。
収穫祭の初日だったあの日、あの商家も書き入れ時で、それはそれは忙しかったそうだから、あの男も慌てていたんだろう、とも。
そして、祭りの始まりの喧噪にかまけて、家人が慌ただしい一日を過ごしているのを良いことに、あの家の跡取り娘が、昼間から、恋人を己が部屋へと引き込んで、宜しくやっていた所へ、折り悪く、セツナが顔を突っ込んでしまい。
「…………ってことみたいだよ。──セツナが倒れちゃった後、凄い大騒ぎになっちゃってね。あそこの跡取り娘だって云う、例の彼女は延々泣き通すし、彼女の恋人は逃げ出し掛けるし、幾ら恋人同士とは言え、親の目を盗んで昼間から、って、女将さんは引き付け起こし掛けるし、最初、セツナのことを、自分の所の奉公人になる子供だって疑わなかった御主人は、怒鳴り散らし始めるし、で。それは誤解だ、ってことと、君は僕の連れだってこと納得して貰うのに、一寸手間取ったけど、まあ、理解はして貰えて。それからここに、引き上げて来たんだよ」
──ま、そんな成り行き、と。
のほほん、とカナタはセツナに告げた。
「……そうですか……。じゃあ僕、悪いことしちゃった……んですよね……?」
「まあ、お互い様って奴だと思うけど。勝手に人違いしたのは向こう……と云うか、例の彼なのだし。セツナに、昼間からそういうことを、って云うの想像出来る訳もないし。向こうには、頭下げ『させた』から、いいんじゃない? 気にしなくて。自分達の娘の『悪さ』をどうするかは、あの家の問題だしね」
「……頭、下げ『させた』……?」
「…………どうでもいいこと、気にしないように。──でも、そうだね。セツナももう少し、世の中には『色々』あるんだって覚えた方がいいってことだけは、言えるのかもね」
話を聞き終え、あちゃー……と、セツナが渋い顔をしたら、他人の家の事情なんて、どうだっていいじゃない、とカナタは、あっけらかんと言い。
しかしその後、僅か考え込んでいる風な、複雑な表情を拵え。
「以前、言ったことがあると思うけど。余りに『知らない』って云うのも、問題だよ?」
ベッドの中で、毛布の端を両手で握り締めたままのセツナの顔を、彼は覗き込んだ。
「それは、その…………。だって…………」
ぐっと顔を近づけられたセツナは、唯々、有らぬ方へと視線を漂わせた。
「あのね、セツナ。自分がどうして、倒れたのか判る?」
「……あー……。熱出したらしいってのだけは、判ってます、けど…………」
「じゃあ何で、熱出したのかは、判る?」
「…………さあ……」
「多分、セツナのそれはね、子供の知恵熱と一緒。君にとってアレは、余程刺激的だったんだろうね。でもねえ……見た目は十四、五でも、セツナ、中身はもう、二十歳越えてるんだから。知恵熱って云うのは正直、褒められた話じゃないよ?」
「…………だって……。だって、ですね…………」
所謂お小言であるそれを、言い聞かせるように口にしてみても。
セツナの視線が、自分を捉えようとはしないので。
溜息付き付き、カナタは諭したが。
ぼそぼそっとセツナは、だって、の一言だけを繰り返した。
「『だって』、何?」
「……あんなの見ちゃった最初は、あの人達何してるのか、本当に僕、良く判らなくって……。でも、あれ? ……って……。もしかしてコレが、昔、皆が僕に話して聞かせようとしてた、『赤ちゃん作る方法』って奴なのかなあ、ひょっとしてー、って思ってですね……。ビクトールさんとかシーナとかが、恋人同士は潔く、裸で布団入って『戦う』んだ、とか何とか言ってたのに似てたし、『ちゅう』してたし……。………………でもぅ……」
「……でも?」
「言いたくないです……」
「駄目」
「駄目って言われても……」
「駄目ったら駄目」
「………………カナタさんの意地悪……。本当に言いたくないのに…………」
──だって、だの、でも、だの。
小言に対して、ごにょごにょとセツナが言い募るから。
やがてカナタは痺れを切らしたように、「一応、言い訳だけは聞いてあげよう」の態度で、微笑んだまま詰め寄り。
情けない程泣きべそを掻きつつ、セツナは毛布の中に潜り、けれど、覚悟を決めたように。
「……怖かったんです、ホントに……」
厚い布越しに響く、くぐもった声で、低く言い出した。
「…………ああ、そんなこと言ってたね、あの時も。君曰くの、『赤ちゃん作る方法』が、そんなに怖かったの?」
「……それも、怖かったですけど……。それよりも…………。……じ、自分も、その……持ってるモノ……なんですけど……。他の人のがあんな風……になるの……真っ正面、から……見ちゃって……あんなのと抱き合える女の人って……? って……それも、怖くって……。だからぁぁぁぁっっ…………」
「……………………。そ、そう……。も、もういいよ、それ以上言わなくっても……。──って、セツナ?」
ぶつぶつ、ごにょごにょ、だから熱なんか出ちゃったんです、多分……と、困り果てながら語るセツナの言い分に、耳傾けている途中で。
話の流れに、自身が頭痛を覚え始めて来たのを感じてカナタは、話を遮った。
けれど、もういいから、と告げてやっても、セツナからは何一つとして返されず。
おや、と、『溺愛』しきりの少年が籠った毛布を、彼は剥ぎ取った。
「……又、熱上がっちゃった……?」
すればそこには、頭を抱えるようにして踞るセツナの姿があって。
首筋辺りに触れてみれば、昨日と同じく、高い熱を放っているのが判り。
やれやれ、とカナタは、途方に暮れた顔をして、セツナの寝姿を直した。