重い瞼を開いてみれば、そこには何時の間にやら、見慣れた天蓋があって。
ああ、このノリ、一寸久し振りかもー……と、セツナは辺りを見回してみた。
己が自室のベッドに、今は寝かされているのは判ったが、起き上がる力はなくて、仕方なし、只、首だけを巡らせ。
「気付かれましたか? 陛下。御気分はどうです?」
そうしてみれば、彼の蠢きに気付いたのだろう、付き添っていたらしい医師ホウアンに、顔を覗き込まれ。
「……あ、ホウアン先生だー……」
にこっと、力なくではあったけれど、彼は笑顔を拵えた。
──戦時中は、このデュナン湖畔の古城に住まい、来る日も来る日も、医務室や戦場で、怪我人や病人の面倒を診てくれていた医師も、終戦後の今は、故郷のミューズ市へ、助手だったトウタと共に戻ってしまっている。
それでも、わざわざ船で湖を渡って、往診には来てくれるものの、それも、七日から十日に一度の頻度だから。
目覚めた時、毎日気軽に会うことは出来なくなってしまった、見知った顔がそこにあったことを、セツナは喜んだ風になって。
「御無理為さらなくても、大丈夫ですよ。丸一日以上、眠っておられたんですから」
酷い顔色をしているにも拘らず、にこっと笑んでみせた彼を、ホウアンは制した。
「…………ホウアン先生。僕、風邪か何かですか……?」
「ですから。御無理は…………」
でも。
ホウアンがそこにいるならと、じたじた体を揺すって、何とか半身をセツナは起こし、溜息を零しつつも医師は、起き上がったセツナの背に、枕を積み上げた。
「……お風邪を召されたのではありません」
そして、彼は。
セツナの枕辺に椅子を引き寄せ、腰掛け、真剣な顔付きになって、話を始める。
「じゃあ、お腹壊しちゃった、とか……」
「食中りでもありません。……陛下。少し長くなりますが、私の話を、きちんと聴いて下さいね?」
「……? ……うん」
「マクドール殿や、陛下に打ち明けられるまで、私はそれを知りませんでしたし、気付けなかった己に、憤りを感じますが……。戦争が終わった今では、私も、陛下が宿されていた、輝く盾の紋章がどのようなものだったかを、承知しています」
「え? ……紋章の所為……なの? 僕が具合悪くなったの……。でも、僕の紋章は、もう輝く盾じゃなくって、始まりの紋章だから……」
「ええ。それも存じていますよ。……ですが今回のことは、紋章の所為、と言って言えないこともないと、私は思うんです。私は医者で、魔法のことは良く判りませんから、多分、としか言えませんけれど。……ですから、何処までも、多分、ですが。昨日、陛下が倒れられたのは、或る意味では紋章の所為です。………………良いですか? 陛下」
「……うん」
「魔法の力は、とてもとても、便利な力です。癒しの魔法は、私達、人の体を癒してくれます。大怪我を負っても、痕すら残らない程、その威力は大きいです。事実、今の医術は、癒しの魔法が存在していることを、前提にされている部分が、殆どです。……でもですね。魔法にも、限界はあります。魔法は、病までを癒してはくれませんし、癒せぬ傷もあります。嫌な言い方ですけど、魔法が万能であるなら、医師がおらずとも、病や怪我で命を落とす人は、いないんです」
「…………そう、だね」
「ですから。幾ら、輝く盾が始まりの紋章になったと言っても、今まで我々に内緒で、輝く盾の紋章を使われて来られた陛下の、お体に溜ってしまった、一言で言うなら、お疲れや、紋章に削られてしまった生気のようなモノが、全て、いきなり、回復するとは、到底私には思えません。陛下が紋章に命を削られることは、もうないのでしょうけれども。一度削られてしまったモノを、真の紋章と言えど、一瞬の内に取り戻せるとは、考えられません。私には、ですけど。現に、こうしてお倒れになってしまったのですし。……そういう訳ですから、陛下。暫くの間は、安静にして、療養為さって下さいね?」
「けど…………。僕、元気だよ……? って言うか、昨日までは元気だったよ……?」
椅子に座って身を丸め、横たわる己への目線と、可能な限り眼差しの高さを合わせて、懇々と言い聞かせてくるホウアンに、セツナは楯突いてみた。
「……陛下。なら、目方を量ってみますか?」
「目方……?」
「ええ。目方。陛下の体の重さ。恐らく、陛下の大凡の年齢と、身の丈に釣り合った目方には、ならないと思いますよ。……陛下が、同盟軍の盟主になられる前。ミューズで初めてお会いした頃。あの頃の陛下は、今よりも、ふくよかでしたよね? 元々から、陛下は小柄で、体も軽いですけど。それでもあの頃の方が、未だ、太っていらっしゃいましたよ。陛下が、太れない体質だったとしても、限度はあると叱りたくなるくらい、今の陛下の目方は、軽いんですよ? ですから、ちゃんと安静にして、体調も整えて、食事も沢山摂って、少し太ってと、為されて下さい。ご自身のお体のことなんです、どれだけ気を遣っても、損にはなりません」
「……うー…………」
さも、大人しくしてる必要なんかない、と言いたげな素振りを見せたセツナへ、ホウアンは、にっこり笑いながら、目方の話を始め。
心当たりがあるのだろう、言われた彼は口籠って、もそもそ、毛布に顔を隠した。
「大人しく為さって下さいね。……ああ、後で何方かに、お食事を運んで貰いますね。病人食になってしまいますけど、今日明日くらいは、それで様子を見て下さいね」
バツが悪そうに、潜ってしまった彼へ、更にホウアンは追い討ちを掛け。
又、後程、と言い残して、一旦、セツナの部屋を辞した。
「……………………そっかあ……。そーゆーことなのかー……。でも、今までは平気だったのになあ……。…………カナタさん、五日前からいないからかなあ……。カナタさんいてくれないと、良く眠れないし……」
医師が去り、一人残された部屋の、ベッドの中で。
はあ……と、セツナは小さな溜息付きの、独り言を洩らした。
────先頃終わったばかりの戦争中、セツナが、初めてカナタと出逢った頃。
戦争の終わり、喪ってしまった義姉、最後のハイランド皇王として逝った親友、自分を取り巻いてくれていた数多の大切な人、その誰一人として告げてはくれなかった、「共にゆこうね」との言葉、「歩く時も、立ち止まる時も、走る時も、踞る時も、傍にいて、全てを共に」との言葉、それを音にしてくれたカナタの存在が、それはそれは『嬉しく』て、『淋しさ』が癒されるようで、だからセツナは、一緒にベッドに入って、眠りに落ちる寸前までお喋りをして欲しい、とカナタにねだった。
共にいる時間が日に日に長くなり、互いが互いの傍にいるのが当たり前になった頃には、眠りに落ちる時でさえ、カナタと二人、仔犬か仔猫の兄弟のように丸まって、とするのが、やはり、セツナにとっての『当たり前』になった。
不完全である限り、宿した者の命を削る、輝く盾の紋章が齎す痛みが、激しくなり始めた頃には、縋っていると、どういう訳か楽になれるカナタの腕がないと、辛い、と思えるように、セツナはなった。
…………そうして、デュナン統一戦争が、そろそろ終わりを見る、という頃。
そして、戦争が終わって、暫くが経った今。
カナタに寄り添って貰わないと、セツナは、酷く浅い眠りしか得られぬようになってしまった。
なのに、深い眠りを齎してくれる人は、五日前より故郷の街へと戻っているから、その間、セツナは上手く眠れていない。
……ホウアンが、諭す如くに告げたことが、間違っている、とは思わないけれど。
それよりも何よりも、カナタが五晩もいないこと、それがきっと、己には一番堪えているのだろうと、独り言付きの溜息を零したセツナは、あーあ……と、瞼を閉ざした。
これまでだって、幾度も、数日に渡りカナタがこの城を離れることは当然あったけれど、それでも、つい先日までは、一〇八星だった仲間達がセツナの傍にはいてくれたから、カナタがいない夜がやって来ても、「カナタさん、いないなー……」と呟く程度で済んでいた。
でも、この古城に残ってくれた一〇八星達は、もう数える程で、誰も彼も、建国されたばかりのデュナンの面倒を見ることに奔走していて、まともな会話を交わせる相手は、シュウやクラウス程度だ。
新しく雇われた、又は着任した文官や武官達には、セツナは未だ馴染みがないし、新任の彼等も、職業軍人や、官僚となって城に残ってくれた、かつての一般兵士達やらも、『統一戦争の英雄、新国の国王陛下』とセツナを見、恐れ多い、とでも言う風に、何処か一線を引いているような態度を取る。
故に、この五日は殊の外、カナタが傍にいない、との現実が、セツナに付いて廻って。
眠りは、浅い以上に浅く。
「五日処か、一週間くらい上手く眠れなくったって、今までは、どうってことなかったのに…………」
カナタさんに頼り過ぎるのも、或る意味不本意なんだけどなー、と思いながら、セツナは、閉じた瞼の先からやって来た、けれど恐らく、何処までも浅いだろう眠りと、仲良くなってみることにした。