もしかしたら今宵は、長き夜になるかも知れない。
そんな予感を覚えたのだろう、すっと立ち上がって、部屋の片隅の茶箪笥の前へと向かった、この部屋の主の背に。
何時から、ルカを庇うなんて殊勝なことを覚えたんだか、と口の中でだけ呟き。
「どうせなら、お酒の方が有り難いかな」
カナタは、茶を淹れようとしていたシュウに、茶ではなくて酒精がいい、と告げた。
「…………それもそうか。つい、癖で。盟主殿は、酒は飲まれぬので」
何時もセツナとこの部屋にいる時の癖が出て、もう真夜中近いと言うのに茶などと言う『不粋』な飲み物の支度をしようとしていた手を止め、シュウは苦笑を浮かべると、するりと手を滑らせ、掴もうとしていた茶筒ではなく、酒精の瓶を取り上げた。
「……しかし。何も彼もが終わっちまった今、全ての始まりの切っ掛けを拵えた『かも知れない』お前を、責めようとか、そういうつもりがある訳じゃねえが。こうしてお前さんと、同じ部屋の中で酒を飲むなんて……あの頃は想像もしたことがなかったぜ、ルカ」
用意された五つのグラスに琥珀色の酒を満たして戻って来たシュウが差し出した盆の上から、すいっと一つを取り上げて、ビクトールが困ったように笑い出した。
「俺とて、そうだ。まさか……こんなことになるなどと、どうして想像出来た?」
ビクトール同様、盆から取り上げたグラスの酒を、くいと威勢よく煽って、ルカは肩を竦めた。
「………………カナタがここに来る途中に拾った、遊歴の戦士だって触れ込みだったあんたが、ルカ・ブライトだったなんてな。思いもしなかったよ、俺は」
もう今更、狂皇子との決戦の夜、一体何が行われたのか、それを言ってみても詮無いことだから、口にはしないけれど、と。
ハイランドの皇都ルルノイエを陥落させた日、相棒より事の真相をやっと語って聞かされたフリックが、溜息を吐き出した。
ルカを生き延びさせるのはセツナの願いだったと言うから、それならそれでいいと、漸く、ルカの正体を受け入れられた表情をしつつ。
「上流から流されて来たセツナ拾って、傭兵砦に連れて帰って。それから、何が遭ったんだったかな。……ああ、そうそう……。ジョウイの奴が、セツナ取り戻しにやって来て、あそこ逃げ出したあの二人を追ってハイランドに潜入して。ナナミと……ムクムク、か。そんな『おまけ』も引き連れて、俺達は砦に戻って……。──リュウベの村陥とした後、砦に攻めて来たあんたは、化け物のように強かったからな。敵わないかも知れない、そう判っていても、今度会ったら只じゃおかない、そんな風に、あの頃は思ってたんだが…………」
フリックは、傭兵砦を陥落させられたあの頃を思い出しながら語って、ちゃぷりとグラスを鳴らしながら、曖昧な笑みを湛えつつ、ルカを見た。
「あの頃の俺が、化け物のように強かったとしても。あの頃の俺が成したことが、どれ程間違っていたとしても。結局俺は、あの頃の俺が望んでいたように、セツナとジョウイの運命を『断ち切る』ことは出来なかったし、あの傭兵砦でお前達の運命を『断ち切る』ことも出来なかった。……滝に飛び込んだ少年兵の一人や二人、放っておいても構わないと、俺はそう思っていたし……攻め込んだ先に、火炎槍を火に焼べるような馬鹿がいるとも、考えてはいなかったんでな」
──どうして俺達は今こうして、一緒に酒が飲めてるんだろうな。
……恐らくは、そう言いたいのだろうフリックの眼差しを、苦渋に満ちた声音と共に受け止めて、ルカは椅子より立ち上がると、それまで以上にシュウの近くへ寄って、行儀悪く執務机の上に腰掛け、些か乱暴に足を組んだ。
「…………ルカ。あの頃の貴方が起こしたことが、どれ程の過ちだったとしても。それは結局、こうして振り返ってみれば、大いなる歴史の御手であり。誰にも止めようのなかったことであり。そんな貴方が生き残ることを望んだのはセツナで、セツナがそう望んだから、僕は今、貴方とこうしていることを受け入れているのだから。もう、そんな顔をするのは止めたら? 誰も今更、貴方を責めたりはしない。……多分ね。──ルカ・ブライトは既に死人で、貴方は唯のルカで。ルカ、貴方は自分が何を償って行かなきゃならないのか、何を抱えて生きて行かなきゃならないのか、それをもう、知ったのだから」
シュウの傍らで、胸に過る様々なことを噛み締めつつ、グラスを廻すルカに。
今更何を嘆こうと、何も始まりはしないよ、とカナタは言って。
肘掛けの上に付いた手に頬乗せ、彼は暫し、遠くを見詰めた。