普段は鯱張ってばかりいる紋章官達が、面白いくらい血相を変えて、「太陽の紋章が!」とリムの玉座まで駆けて来たあの日から、未だ七日と経っていないのに、何も彼もが一変してしまった気がするな……、と。
太陽の紋章を宿すと相成ったその日、籠った自室にて、この六年、殆ど袖を通すことなかった、王族然とした私服を久し振りに身に纏ったシュユは、珍しくも溜息を吐いた。
────二十二になった今でも、彼の面差しは、十五、六だったあの頃と変わらず女性と見紛うばかりで、並み以上の女でも裸足で逃げ出す麗しさもそのままで、実際よりも二、三歳若く見られがちだけれど、背も伸びたし、痩身なれど青年と呼ばれるに相応しい体躯も得たから、十五だったあの頃の衣装は、もう二度と着られない。
でも、本当に久し振りに袖を通した私服──恐らく、女官辺りが勝手に仕立てさせたのだろう、衣装箪笥の奥底に押し込められていた、存在さえ知らなかった新品のその服は、当時、好んで着ていた物と同じ、橙色を基調とする、ゆったりとした意匠のそれで。
「まさか、こんなことになるとは、流石の俺にも想像付かなかった」
等身大の鏡に映した、少年だった昔を彷彿とさせるような自身の姿を見遣った直後、シュユは今度は、苦笑を洩らす。
…………あの内乱の日々の最中、本心では唯一の友と、今でも思い定めているロイに言い当てられた通り、彼は、『女王陛下の国には不要な王子』という存在でしかない自分を持て余し過ぎて、ロイ曰く「ド最低な人となり」な己を築き上げてしまった。
軍主として自ら戦った日々が終わっても、六年が経っても、女王陛下の国には不要な男子の王族、という彼の立ち位置が根本から覆ることは有り得ず、そういう意味での自身の存在価値を見出すことは、結局、彼には叶っていない。
あの内乱を経ても、シュユにも、ファレナの国にも、その部分に関しての変化は何ら齎されなかった。
そう、今、鏡に映る、二十二になったのに、十五だったあの頃と重なる彼の姿のように。
けれど、それでも。
シュユにとって、過ぎたこの六年は、悪くなかった。
海の向こうに行ってしまった、唯一の友を恋しく思えども。退屈を覚えども。
悪い毎日ではなかった。
悪くはない毎日の中で、少しずつ年老いていけば、何時かには、自分を持て余さずに済む日が訪れるかも知れない、と彼にも思え始めていた。
なのに、運命は、こんな風に流れて。
「失礼致します、閣下」
年月が経とうと、人間ってのは、変わらないし変われないもんだな、と姿見の中の自身へ向けて、シュユが苦笑を浮かべたその時、部屋の扉が叩かれて、女性が入室して来た。
「……ああ、ルセリナ。どうかした?」
やって来たのは、終戦直後から特別行政官を任されているルセリナだった。
彼の宿星の一人だった、今となっては、誰もが敢えてその家名を口にしない、バロウズ家の長女。
「あの。閣下にお手紙が」
「そう。有り難う。……ルセリナ。僕は、今日から閣下ではないから。もう、そう呼ぶのは、ね?」
実に希有なことに、シュユが純粋な意味で気に入っている女性でもある彼女は、一通の文を携えており、封書を手渡しながら、ちらりと彼を見遣るなり、彼女は悲しそうに面を歪め、
「そう……、でしたね。申し訳ありません…………」
「それから。そんな顔もしないで。美人が台無しだよ。……それじゃ、又、後で」
今度は深く俯いてしまった彼女の、落とされた肩を幾度か叩いて慰めた彼は、ルセリナが去るのを待ち、受け取った封筒をひっくり返した。
「……あんの、馬鹿。選りに選って、こんな時に手紙なんぞ送って寄越しやがって」
────そこに記されていた差出人の名は、ロイだった。
手に取る以前から、多分……、とは思っていたが、案の定だった署名に、シュユはムッと顰めっ面をしながら封を切り、取り出した中身を読み始める。
数ヶ月振りに届いた、ロイからの便りには、常と変わらず挨拶の言葉すらなく、短い近況だけが綴られていた。
あっという間に読み終えられたそれには、
『所属している劇団が、今度、赤月帝国の外れにある──という街で公演をすることになった。赤月は今、解放軍と帝国軍がやり合ってる所為で何処も彼処も戦場で、一日限りの、とても小さな規模の公演しか開けないけれど、もしかしたら、主役か準主役級の役が貰えるかも知れない』
という風なことが認
今日、この日、太陽の紋章を宿す己が、この先、どんな日々を送るつもりなのかを知ったら、あの馬鹿は、きっと怒り狂うだろうな、と楽しそうに笑いながら。
もう二度と、返事は書いてやらない、そうも思いながら。
そうして、愉快そうな笑みを湛えたまま、彼は自室を後にする。
その刹那を最後に、二度と戻らぬ部屋に背を向け、封印の間へ向かい、太陽の紋章も、黎明や黄昏の紋章も宿して、自身ごと、紋章達を歴史の裏側に沈める為に。
────太陽暦四五六年。
又は、新都暦二四四年。
北大陸南部を治める赤月帝国にて、解放軍と帝国軍との戦いが、激化の一途を辿っていた頃。
ファレナ女王国にて突如起こった、二十七の真の紋章の一つ、太陽の紋章に絡む不測の事態は、女王リムスレーア・ファレナスの実兄、シュユの身に紋章を宿すことによって事なきを得た。
……が、以降、ファレナ全土に有名や武勇を馳せた彼の名は、祖国の歴史からも、世界の歴史からも、ぷつりと消えた。
シュユ自身がそう望み、そうなるように仕向けたから。
────太陽の紋章並びに、黎明の紋章と黄昏の紋章を、たった一人の、生きた人間が宿すということ。
それは、確かに生きた人である者に、不老の運命を齎すことであり、強大な力を秘めた紋章宿す不老の身となる彼を、祖国の人々もが、畏怖嫌厭を通り越し、化け物と看做すかも知れぬということであり。
周辺諸国のみならず、真の紋章狩りに熱心な世界最大の大国、ハルモニア神聖国とファレナ女王国との間に、最悪の確執を齎すかも知れぬことでもあり。
…………故に、シュユは、その全てを解決する唯一の術だからと、紋章を宿すと同時に、始祖の地のあの遺跡に、人知れず、自身を幽閉するように、とリムスレーアを説得した。
──ファレナから、太陽の紋章という存在を消す訳にはいかない。
太陽の紋章も、黎明や黄昏の紋章も、決して、ファレナは失ってはならない。
その絶対条件を死守したまま、生きた人間に宿すことでしか太陽の紋章を留め置けなくなった事実を隠すには、そうするのが一番いい。
幽閉の形を取れば、要らぬ確執を齎す可能性の高い、『太陽の紋章を宿す、生きた、しかも男子の王族』という存在を、何者からも隠し遂せるし、ファレナ王家は三つの紋章を所持している、という建前も揺らがない。
だから……、と。
「兄上…………。嫌じゃ……。そんなのは嫌じゃっ!」
──他ならぬ兄自身に、微笑みつつ、そう告げられた刹那、未だ幼かった子供の頃そっくりにリムスレーアは叫んだが、
「……ああ、すまない、リム。僕の言い方が悪かった。僕は、始祖様のように太陽の紋章を宿して、始祖様が降り立たれたあの地で、紋章と共に、リムが治めるファレナの守護者になるんだ、って。そう言い換えれば、納得出来るかい?」
浮かべた微笑みは消さず、シュユは、妹をそう言い包めた。
「判ったのじゃ……」
故に、態の良いことを言われているだけ、と判ってはいても、兄の決意が揺るがぬことも判ってしまった若い女王は、『太陽の紋章を宿した者』を、秘かに始祖の地に幽閉することと、その日を以て、ファレナの歴史から、シュユの名を消すことを決めた。
再び、涙を飲んで。