海も、泣くのか。

……渦巻く周囲の喧噪の中から、海鳴りの音だけを拾って、テッドは頭の片隅で、そんなことを咄嗟に思った。

────巨大樹を取り囲むようにして作られたのか、それとも、侵食するように、巨大樹が根を張ったのか。

意思持ち動く、大樹の姿をしたモノを滅ぼした途端、エルイール要塞は崩壊を始めた。

そんな最中から、這々の体で逃げ出し、巨大船へと取って返して、全てが終わったと思ったら、近付いて来たクールークの旗艦に一人乗っていた、トロイとかいう名前らしい将が申し込んだ一騎打ちの勝負を、何を思ったのかヨミは、受けて立ってしまい。

仲間達が止める間もなく、沈没し掛けの船に飛び移ったヨミと、彼を迎え撃つトロイの二人を、周囲の者達と共に、テッドも、唯、見守るより他なかった。

あいつのことだから、多分大丈夫。

……そう思っても、日々を過ごした船の中、他人との関わりを殆ど持たなかったテッドの耳にさえ、度々その名が届いた敵国の将は、手強いように思えた。

ヨミが、彼に負けることは有り得ないとしても、無傷では済まないのではないかと。

だが、少々の手傷は負ったものの、海神の申し子との二つ名があるらしいトロイに、無事ヨミは勝ってみせて。

「一緒に……」

と、手さえ差し伸べた。

………………だが、「まあ、そうなるだろうな、当然」と、テッドが内心で思った通り、差し伸べられた手を、トロイが取ることはなく。

申し子は、母なる海へと。

だから。

『その水』には想いが在ると錯覚出来るくらい、海鳴りが激しくなり始めたのは、『子』が還されるが故かと、彼でさえ、感傷的になり掛けたのだが。

……そうではなかった。

──それは、崩壊を始めていたエルイール要塞で起こった大爆発が、本拠である船を飲み込まんとした刹那のこと。

………………何を想い、オベル王が叫んだのかまでは、テッドには判らなかった。

渾身の『制止』だったのかも知れないし、苦渋を飲んでの『促し』だったのかも知れない。

が、その刹那、オベル王リノが、甲高く、ヨミの名を叫んだことだけは確かで、その叫びに応えるかのように、仲間達にさえ、壁の花、との印象を抱かせて来たヨミが、凛とした面で、罰の紋章宿った左手を掲げたら。

海鳴りは、トロイが海へと還った瞬間よりも、尚激しさを増して、それ故に。

……テッドは。

 罰の紋章の奥底から沸き上がって来る、亡者達の怨嗟に似た音に、裏側で重なるように起こった海鳴りの音を拾って、テッドは。

泣くのか、と。

そう思える程に、海鳴りがその激しさを増したのは。

海の神の申し子と、そう呼ばれた男の為などではなくて、ヨミが、海へと…………、と。

咄嗟に、そう思った。

……………………罰の紋章は、宿した者の、命を削る。

生と死を司る紋章──魂喰らいが、『他人』の命を狩るに似て、あの紋章は、宿した者の、命を掻く。

……そのようなこと、テッドは充分過ぎる程、承知している。

無論、他の者達も。

だから、船上の仲間達は、罰の紋章を掲げるヨミを見た時、思わず、と言った風に、彼から目を逸らしたし、テッドも又、過ぎる程に承知している事実と、咄嗟に胸に浮かべた想いが相まって、『あんの、馬鹿……っ……』と、瞼を閉ざしそうになったけれど。

くっと、彼はそれを堪えて、その二の足でしっかり、床板を踏み締めつつ立つヨミを、最後の最後まで見詰め続けていようと、それまでよりも一層、そのまなこを見開いてみせた。

瞳を見開いたテッドが見詰め続ける中、自身の左手の紋章を見守るかのように上向いていたヨミは、依然、毅然としたまま、立ち尽くしていた。

──『亡者達の怨嗟』は、その不気味さを増すばかりで、泣き始めた海鳴りは、より悲壮そうな音となって、船は揺れ、不安定な甲板の上の足は掬われ。

決して、ヨミから瞳を逸らさないと誓ったのに、テッドは、覚束ない足許と、赤黒く辺りを染めて行く罰の紋章が放つ光に、否応なく、見詰め続けた彼より、視線をぶらさずにはいられなくされた。

……瞳の先の風景が、ひと度ぶれてしまえば、後はもうなし崩しで、ぶれてしまった視界の中にヨミを戻す処か、その姿は全て外れ、あっ、と思った時には、激しく船を叩いた波の所為で、甲板の上に、倒れ込んでしまった。

テッド以外の仲間達も、皆、甲板の上に身を伏せるか、又は転がるか、としており。

………………結局、それ以降。

高波と、海鳴りが止み、罰の紋章が放っていたどす黒い光が褪せて、エルイール要塞付近の海域を覆っていた霧が晴れ出した時には。

ヨミの姿は何処にもなく。

誰も、彼を見付け出すこと叶わず。

一体何処に行ってしまったのか。

生きているのか、死んでいるのか。

それすら、誰にも判らなかった。

人々が手分けをして、巨大船の中を駆けずり回り、が、何処にもヨミはいないと、焦った風に怒鳴り合っているのを聴いて、そうだ、と。

テッドは一人、船の舳先に立ち、魂喰らいが、罰の紋章の気配を探し出せはしないかと、神経を尖らせてみたが。

魂喰らいからの答えは、『否』、だった。

ヨミと、ヨミに宿っていた罰の紋章は、天へと還ったか、さもなくば、地へと潜っ……いや、海へと沈んだか、としか、テッドにさえ思えぬ程、魂喰らいは『沈黙』を保ち。

ヨミが船にいない、と知れたのを境に、それまでとは一転、海も、空も、全て。

『静寂』、だった。