目が覚めたら、そこは暗闇だった。

だから、おや……? とヨミは一瞬、首を傾げた。

どうして? と。

たが直ぐに、その暗闇は、見覚えのある暗闇だと判って、ああ……、と。

彼は、自分自身を納得させるように、軽く頷いた。

──『次に自分の目が覚める時』、それは、『別天地』だと、彼は思っていた。

世の人達の想像の世界──例えば天国だったり、例えば地獄だったり、と言った、さも、誰もが見て来たかのように語る『場所』ではないかも知れないけれど、天国だったり、地獄だったり、と言った名前達の言わんとする場所、即ち『あの世』。

そんな『別天地』で、次に己は目覚めるかも知れないと、ヨミはそう思っていて、別天地には別天地なりの世界があると、そうも思っていたから、彼は、瞳を開いた時、眼前にあった暗闇に、最初、違和感を覚えたのだ。

…………あの世、と呼べる場所が、本当にあるのかどうかは疑わしい、とのそれが、ヨミの本音だけれど。

魂の行方なんて、あるのかどうか……、と、そう考えて来たけれど。

でも、あの世──魂の行方となる場所、それが本当にあったらいいな、そんな場所が本当に在れば、少なくとも『一人』は確実に、悩まなくて済むようになるから、という『願望』も、ヨミは持っていたので。

殊更、目覚めた時、眼前にあった暗闇が、嫌だったのかも知れない。

だが、暗闇は、『何もない世界の闇』ではなく、見覚えのあるそれだ、と知って。

彼は、そろそろと、闇の中を歩き出した。

……ここは未だ、『死後の世界』ではない。

多分、罰の紋章、若しくは、罰の紋章が見せる『世界』の中だ。

紋章を宿した時より、幾度か通った場所。

罰の紋章に命を掻かれて死んでしまった人達の、死ぬ間際の声と、死して後の声を聴いて、そして、死んでしまった人達を、打ち払うようにしてきた場所。

どうして、自分がこの場所を今、歩いているのか判らないけれど、この先に、『何かの世界』が在るかも知れない。

…………だったら。………………と。

ヨミは、そう考えて。

闇の中、真っ直ぐ、足を進めた。

──辿る、暗闇の道は、これまでと何ら変わらなかった。

不気味な色の光が作り上げる隧道のような、余り、気分の良くない道。

初めてここを通った時は、この不気味さが嫌で、駆け抜けるようにしてしまったけれど、回数を重ねる内に、辿る先には『誰か』がいると、そう知ったから、彼は、駆け抜けることを止めていて。

どうして己がここを、と、そんな風に思わざるを得ない今の彼の道行きは、殊更、ゆるりとしていた。

しかし、思いの外、その道程は長く。

これまで通りだったら、もう『誰か』に巡り会ってもおかしくない程の距離を進んでも、何者の気配も生まれず。

走り抜けてしまった方がいいだろうかと、そう思い始めた頃だった。

……不意に、『世界』の遥か先に、ぽつんと、何かの点が見えた。

それを見付けて、あっ……と、ヨミは歩みを早めた。

不気味な世界にぽつんと出現した一つの点が、揺らぐことはなく。

近付けは近付く程、当然のように大きくなって。

けれどそれは何処か、『正しくない』ように思えた。

………………本当に、只の点でしかなかったそれは、近付くに連れて、こちら側に背中を見せて佇む人の姿らしき物と化して、でも、それは余りにも、はっきりと見え過ぎた。

この世界で巡り会って来た者達は皆、薄墨で塗り潰され掛けているような、胡乱とした姿を晒していたのに、どういう訳か、近付きつつある人影だけは、白く光っているかの如くで、故にヨミは咄嗟に、あれは、『正しい存在』ではないのではないかと、懸念したのだが。

早めてしまった足の進みを緩めるよりも先に、何時の間にか、手に取れる程に大きくなった人影は、ヨミを絡め取るように、くるりと振り返った。

──────振り返った人影は、女性だった。

何も言わず、佇むその姿から既に、その気品が伝わってくるような、そんな女性。

……ヨミに、何かを想わせるよりも先に。

ヨミの足が、何処かへと向き直るよりも先に。

その動きと想いの一切を、絡め取るかの如く、威厳に近い何かを以て、振り返ってみせたのに。

何一つとして語り掛けることなく、唯、穏やかに、微笑んでいるだけの女性。

「あ…………。あ、の…………」

振り返った。

そして、巡り会ってしまった、その女性の態度に、困惑して。

この『世界』にいるのだから、『生き物』ではない、そう思いながらも。

躊躇いつつも、思わず、ヨミは問い掛けを放った。

「貴方、は…………?」

けれど、その『存在』を辿々しく問うても、彼女は黙りこくったまま、ひたすらに笑んでみせるのみで。

この人は、これまでの人達と同じように僕がするのを、待ち侘びているのだろうか、と。

そろりと彼は、腰の双剣の柄へ、手を掛けた。

………………しかし。

その手を、剣へと伸ばしてみたものの。

どうしても彼には、鞘より刃を、抜き去ること叶わず。

小さな子供のように、どうしよう……と、泣き出しそうな顔を作って、上目遣いで彼は、彼女を見た。

すれば、彼女は。

浮かべた笑みを、慈愛のそれへと深め。

唇の動きだけで、一言、

『貴方…………』

……と。

ヨミへと呼び掛けた。

「え………………?」

『貴方、は………………。────…………』

そうして彼女は再び、唇の動きのみで、某かを呟く。

…………彼女が呟いたそれは。

『ヨミ』の名ではなかった。

けれど、確かに彼女はその『名』を、ヨミへと向けて与えた。

「……………………お、母さ…………?」

彼女が与えてくれた『名』と。

湛えられ続ける慈愛の笑みとを、受け取り。

とてもとても、大きく瞳を見開いて、ヨミは、『言葉』を言い掛けた。

……確信に足る物など何処にもありはしないのに、彼は彼女を、母と呼び掛け。

腰の双剣に添えたままだった両手を、差し伸べようとした。

そうしてみても、彼女の深い笑みは変わらず、佇むその姿も揺らがず。

でも、彼女へと向って伸びたヨミの手が、彼女に触れるよりも先に、彼女の姿は掻き消え。

その代わりに、ふわり、と。

ヨミの髪に、暖かい何かが触れた。

触れた、暖かい何かが去った後には。

再び、闇が帰って来た。