今度、目覚めた時、目の前にあるものは、と。

恐る恐る、ヨミは瞼を開いた。

己にも掴めないくらい、遠い所にあった意識は、何時からか耳を打っていた、さらさらという、聞き慣れた、そして心地良い音に、浅瀬まで引き上げられて、だから、嫌だと思いながらも彼は目を開いて、予想に反しそこに広がっていた、雲一つない、青空を見た。

…………そう、彼が目を開いた時、そこにあったのは晴天の空で、耳を打ち続けていたさらさらという音は、さざ波だった。

南国の、抜けるような青空、青い海、波の音。

それが、己を取り巻いていると知って、ヨミはそろそろと、その身を起こす。

罰の紋章が見せる、暗い隧道のような世界を歩いていた時から今までの、偽の意識とは違う、本当の意識を取り戻して、彼は。

リノの声に応えるように、罰の紋章を開放してから今までを、振り返ってみた。

──罰の紋章が齎す某かを受け取ってしまったのか、全ての者が身を伏して、己を見詰めること叶わなくなって直ぐさま、船の脇に下がる、小さな上陸船の一つへヨミは駆け寄った。

……今日という日の為に、と、そう思っていた訳ではないけれど。

何時か、『こういう日』が来てしまったらと、そう考えて、行かなくてはならないかも知れない『何処か』へも、持っていきたいと思った、細やかな品を幾つかだけ詰めた小さな袋を、その小舟の中に、彼は既に隠していたから、身を躍らせるようにそこに乗り込んで、海面へ、船を下ろすだけで良かった。

誰にも気付かれぬ内に、一刻も早くこの場を離れようと、少しばかり慌てた手付きで舟を下ろせば、ぽちゃり、と、存外可愛らしい音と共に、小舟は波間に揺れて。

櫂を両手に漕ぎ出しながら、ヨミは一度だけ、離れ行く巨大船を見上げた。

包まれた、罰の紋章の名残りと、霧の名残りの中に今は未だある本拠は、それまでとは打って変わって、静寂だった。

………………起こり続けた日々の出来事、つい先程、終えたばかりの戦い、その全てが、彼の中の何処かで、現実と、三分の一程の、浅いブレを見せているけれど。

その、大きな大きな船は確かに、彼にとっての幸せの一つだった。

船の中で過ごした時も、時を共に過ごした人達も、彼にとっての、幸せの一つだった。

何時か必ず、『出来事』に終わりが来るのだとしても、打たれなければならない終止符が、何時までも打たれることなく、日々が続けば、と。

そう思える程に。

でも。

幸せが、幸せであるからこそ。

このまま、罰の紋章の齎す運命さだめに負けてしまうかも知れない自分は、この場より去らなくてはならないから。

『そうなる』と言うなら、この運命を誰にも譲り渡すことなく、自分は消えてしまわなくては、と。

彼は小舟を、大海へと漕ぎ出し、そして、罰の紋章が見せる、『世界』を見て。

……けれど、気が付いたら。

ヨミの前にあったのは、雲一つない空と、青い海と、波の音と。

母かも知れない人の、笑みと『想い出』、だった。

────あの人は、本当に、お母さんなのかも知れない。

本当は、お母さんではないのかも知れない。

彼女は唯、違う名で己を呼び、笑み、小さな温もりをくれただけだ。

本当のことは、判らない。

が、それでも。

自分が、罰の紋章の運命に勝てたらしいのは、あの人のお陰でもあったのかも知れない、それだけは、言えるような気がする、と。

ヨミは、そう思った。

あの人が、母であっても、母でなくても。

あの人が、手を貸してくれたのは確かで、そして。

あの人を、自分勝手に、瞼の母と思うことは、きっと、許されると思う、と。

……だから、ヨミは。

さざ波に揺れる小舟の上、立ち上がって、辺りを見回した。

自分は今、こうして、生きているのだから。

何処かへ行こう、何処かを目指そう、そう考えて、彼が、広い大海を見渡せば。

少しばかり離れた波間の中。

姿霞ませながら近付いてくる、巨大船が見えた。

理由がどうであれ、一度は捨てた、『幸せの船』が。

…………己はあそこを、自ら発った、と。

そんな思いに駆られて、彼は一瞬、躊躇ったけれど。

船の舳先や見晴し台より、こちらを見遣っている風な人々へ、立ち上がったヨミは、高く上げた右手を振った。

「仕方ないっしょ、ねえ物は、何度見てもねえんだってっ! 自分でもう一回、数え直してみりゃいいだろっ、上陸船が一隻、足りねえのはホントだってっ!」

──ナユタと、ヨミが名を冠した巨大船の甲板で、女海賊キカの片腕の一人、ハーヴェイが、リノに食って掛かる声が、甲高く響いた。

「あるの、ないの、そんなことを言ってんじゃえねんだよ、俺だってっ!」

噛み付かんばかりの勢いを持つ、ハーヴェイに返されるリノの声も又、喧嘩腰で。

「ここで怒鳴り合っていても、どうしようもないでしょう? 兎に角、探しましょう」

そんな二人を宥めるように、もう一人のキカの片腕、シグルドが割って入って、彼等の周囲を取り巻く喧噪は、激しさを増したけれど。

気持ち、判らない訳じゃねえけど、と、テッドは喧噪より離れて、甲板の縁に凭れ、すっかり凪いで大人しくなった、紺碧の海を見ていた。

「…………どうして、その方角を見ている?」

ヨミが消えてしまったと、慌てふためく仲間達を無視し、我関せず、とでもいう風にしているテッドの傍らに立ち、同じく縁に凭れて、キカが言った。

「………………あいつ」

するっと、歯向かう暇も与えず、隣にやって来た女海賊を、胡散臭気に見上げつつも、テッドは口を開く。

「……ん?」

「……ヨミ。…………あいつ、案外、単純だからさ。わざわざ小舟に、巨大船の舳先廻らせて、反対方向にトンズラはしないな、と。そう思っただけだ。だから、消えちまった小舟が下がってた側の海を、こうして眺めてる」

「…………どうして」

「……さあね。あいつが、そう簡単にくたばる筈ない、って。何処かで俺も、そう思ってるんだろ。そう思いたいだけ、なのかも知れないけど」

「だから、海を見る、か?」

「…………悪いか?」

「いいや。私もだ」

「なら、わざわざ訊かないでくれよ。……こうしていたら、波の間にひょっこり、小舟が見えたりするんじゃないか、って。そう思ってるだけなんだ、俺は」

「見える、ではなくて。探す、の間違いだろう?」

鬱陶しそうにしながらも。

一寸した、期待とも言えぬ期待、と、凪いだ海を見詰め続けるテッドを、キカは、からかうようにしてみせた。

「……何で、俺が…………」

微かな笑いを含んだキカの言い種に、彼は益々、機嫌を損ねてはみせて。

けれど、その眼差しだけは真剣に、波頭の向こうを見据えていた。