「さっさと戻って来い、この大馬鹿野郎っ!!」
──リノの罵声が、凪いだ海に響き渡った後。
小舟は静かに、巨大船へと近付いた。
その櫂を握る者は確かにヨミで、仲間達からは、歓声めいた悲鳴が上がった。
湧いた歓喜が、甲板を満たし切らぬ内に、小舟は巨大船と舳先を並べ、垂らされた縄梯子を伝ってヨミが登って来た時には、歓喜は、より一層の歓喜となって、甲板に居合わせた全ての人々を浸したが。
「……おっまえ…………っ」
仲間達の歓喜よりも先に、ヨミを出迎えたのは、リノの唸り声と、振り上げられた握り拳だった。
「一寸、お父さんっ!」
「…………何も、殴らずとも」
勢い良く振り上げられ、やはり、勢い良くヨミの頭目掛けて振り下ろされ、パカン、と『綺麗』な音を立てたリノの拳に、フレアとキカが、非難をくれる。
「皆に心配掛けたんだ、ゲンコの一つくらい、くれてやった方がいい」
が、しれっとリノは言い切って、今度は、自ら叩いたヨミのそこを、緩く優しく、撫でた。
「無事で、良かった……」
そうして、彼が呟けば。
「………………御免、なさい……」
恐縮しているのか、それとも照れているのか、少しばかり俯き加減に、ヨミは詫び。
「あの、その……」
恐らくは、言い訳か何かだろうそれを言い掛け、そのまま。
パタ、っと。
意識を失って、その場に、倒れ込んでしまった。
「おい? おい、ヨミっっっ」
「……誰か! ユウ先生か、キャリーさん呼んで来てっ。早くっっっ!」
前のめりに倒れた彼を、慌てふためきリノが抱え上げ、傍らにいたフレアは、医師か看護婦をと、声を張り上げ。
巨大船の甲板は、又、喧噪に包まれた。
軍主の──即ち、自身の部屋へ担ぎ込まれたヨミの容態を、駆け付けた医師ユウは、看護婦のキャリーと二人掛かりで確かめていたが。
「日射病です」
直ぐさま、きっぱりと、そう言って退けた。
「は? 日射病?」
「そうです。エルイール要塞に乗り込んで戦い終えて直ぐ、トロイ……でしたか? クールークの。あの彼と戦って、罰の紋章を振るって、群島特有の炎天下の中、飲まず食わずで舟を漕げば、まあ、大抵はそうなるでしょうね。だから、心配せずとも、直ぐに気が付くと思いますよ。頭を高くして寝かせて、体を冷やしてあげて下さい。目が覚めたら、水分を取らせて。多分、直ぐに良くなりますよ」
その診断に、きょとん、と目を丸くした、ヨミの部屋まで付いて来た者達に、テキパキと彼は告げて。
「じゃあ、これで。未だ、先程の戦いの負傷者の手当が、残っていますから。お大事に」
キャリーを引き連れ、ユウは、さっさと医務室に戻ってしまった。
「日射病…………」
「何だ、それだけか……」
「……でも、良かった、それだけで」
生きていてはくれたけれど、罰の紋章が、又、彼に何か……と、ヨミが倒れた時、嫌な想像をしていたキカや、リノや、フレア達は、一様に、溜息を零す。
「心配するんじゃなかった、ってトコか……」
皆に巻き込まれるように、ヨミの部屋へ集うことになってしまったテッドも、やれやれと吐息を吐いて、ユウとキャリーの後を追うように、部屋を出ようとした。
「………………た、ぶん……、多分、少なくとも暫くは、罰の紋章は、僕に、何もしない、と……」
だが、テッドが踵を返した瞬間、ベッドより、少しばかり弱々しいヨミの声が上がって。
テッドも、他の者達も、瞼を開いた彼に、動きを止められた。
「ヨミ? 気付いたか? 平気か? お前」
「平気……、です。御免なさい……。今、ユウ先生……? が言ってたみたいに、大したことじゃ……」
「あ、駄目よ、起き上がっちゃ」
「……ん。大丈夫……」
瞳を巡らせた彼を、リノが覗き込めば、大したことないとヨミは身を起こし、フレアの制止も退け。
「ホントに、御免なさい。でも、もう大丈夫だから。罰の紋章のことも。多分、だけど…………」
僕はもう、本当に大丈夫、と。
にっこり、笑った。
「…………どうして? 何で、そう思う?」
同じ、真の紋章宿す者として、ヨミのその声音、その笑みに、何かを察したのだろう。
去る足を止めて、テッドが問うた。
「どうして、って…………。それは、その……」
「何でだ。何で、言い切れるんだ? 紋章のことも」
「だから、それは、えっと…………」
問いを進める、テッドだけでなく。
キカや、リノや、フレアや、ラズリルの皆や。心配そうに、開け放たれたままの扉の向こう側から、様子を窺ってくる者達の視線を一身に受けて、困ったように俯き、言い淀み。
「それが……、あの…………──」
けれど、黙っていても、許しては貰えないと思ったのだろう。
ヨミは、ぼそぼそと、事情を告げ始めた。
これまで、罰の紋章を開放する度、紋章の見せる、紋章の記憶の世界を通り過ぎて来たこと。
通り過ぎた世界の中で、何人かの人に会ったこと。
本拠より離れるべく、一人小舟に乗り込み、海を漂っていた間にも、その世界を通り過ぎたこと。
その世界で、一人の女性に逢ったこと。
その女性を、母だ、と、そう思ったこと。
それらを。
「……だから、『どうして』、って言われると、困るんだ。その人のことを、お母さんだと思ったのも、僕の勝手な思いだし、僕がこうして生きているのは、お母さんだと思い込んだその人のお陰もあったのかもって、そんな風に考えたのも、そんな気がする、っていうだけで…………。…………でも……、でも、あの人を、お母さんかも知れないって、そう信じ込むのは、僕の勝手かな、って…………。僕の為に何かをしてくれたのは確かだし、僕が生きてるのも確かだし、罰の紋章も、きっと何もしない、って…………。暫くは、だけかも知れないけど……」
「『お母さん』、ねえ…………」
ヨミの話を聞き終え、それが根拠かよ、とテッドは、何と言ってやればいいのか判らない風に、ガシガシと、頭を掻いたが。
「………………なあ、ヨミ」
「はい?」
「どうして、その女を。お前は、『お母さんかも知れない』って、そう思ったんだ?」
徐に、リノが。
やけに、真剣な眼差しをして。
問い質した。
「………………それは、さっきも言ったみたいに、僕の勝手な──」
「──目の前に現れた見知らぬ女に微笑まれたら、誰でも彼でも、お袋さん、って思うのか? お前は。そうじゃないだろう?」
「ああ……。切っ掛け、ですか? …………あの人、僕のこと、ヨミって呼ばなかったんです。僕を見て、確かに僕に向けて、────……って。だから、思わず……」
何故、そんなことを、真剣に訊いてくるのだろう、そう思いながら。
リノの問いに、きょとんとしたまま、ヨミは何でもないことのように、答えた。
母だと思いたいと願った人に、あの時、呼ばれた名を。