────……という名で呼ばれた、と。
ヨミが告げた瞬間。
リノも、そしてフレアも、何故か、とてもとても大きく、その瞳を見開いた。
「それが、何か…………?」
「…………本当に……、本当に、その名を呼んだんだなっ? そう言ったんだなっ? どんな女だった? お前が、紋章の記憶の世界で逢ったっていう女は、どんな風だったっっ!?」
次いでリノは、息せき切って、ヨミに迫り。
「どんな……って、ええと…………」
乞われるまま、ヨミは、『彼女』の姿を告げた。
髪の色、瞳の色、面差し、纏う雰囲気、身に着けていた衣装、それらを、今尚鮮明な、記憶に従って。
「ヨミ、っていうそれじゃない名で呼んで貰っただけだけど……。お母さんって呼び掛けてみても、あの人は何にも言わないで、頭を撫でてくれたから……、僕があの人のことを、お母さんかもって、勝手に思い込むくらい、許して貰えるかな、って……。本当に、それだけ、なんです」
そして、全てを告げ終え、彼は、下らない思い込みを話して御免なさい、と。
恥ずかしそうに、眼差しを伏せた。
「…………………………そう、か。その女が、お前をその名で呼んで、母と呼ばれても、唯笑って、頭を撫でて…………。…………そう、か…………」
──と、リノは。
どうしてか、眦を熱い物で潤ませ、声を震わせ、バッと伸ばした腕の中に、ヨミを抱き込んだ。
「リノさん……? 僕が会ったあの人を、知ってるんですか……?」
「……紋章の世界で逢った女が、お前に呼び掛けた『お前の名』は。群島の海に盗られた筈の、俺の息子の名だ。お前が逢った女は、俺の、妻だった女だ。……俺の女房で、フレアの母親で。そして、お前の、母親だ。…………お前は……やっぱりお前は、俺の、本当の息子だった……っ……」
「え、でも、それは…………。違──」
「──違わない。『あいつ』はお前の母親で、お前は、俺の息子だ」
突然の腕に、ヨミは酷く驚き、狼狽したように、オベル王の名を呼んだが、リノは。
お前は俺の息子だ、と。
ヨミを抱き込む力を強めた。
「………………あの」
けれど。
やんわりとヨミは、リノを押し退け、悲しそうに笑む。
「何だ」
「リノさんの奥さん──オベル王妃は、罰の紋章を宿してたことがあったんでしょう? ……だったら、僕が、リノさんとあの人の子供だったとしても、そうじゃなかったとしても、今、この紋章を宿してるのは僕なのだから、紋章の記憶の世界で、オベル王妃に巡り逢ったって、それは不思議な話じゃないし、僕があの人のことを、お母さんかも知れないって思ったのは、そうだったらいいな、っていう、僕の勝手な思い込みだし。あの人だって、紋章を宿してる僕を、自分の息子みたいに思ってくれただけのことかも知れないし……」
「……だから? それが、どうした?」
息子だ、と。そう思ってくれるのは、嬉しいけれど、と。
哀しそうに笑みながら、ヨミが首を振れば。
それがどれ程のことだと、リノは胸を張った。
「あいつのことを、母親かも知れないと思ったのが、お前の勝手な思い込みだってんなら、俺は俺の勝手な思い込みで、お前のことを息子だと思う。お互い、勝手な思い込みだ。文句は言わせねえ。あいつがお前の母親かも知れないってんなら、俺はお前の父親かも知れない。それだけのことだ。……何が悪い? あいつは、お前に、お母さんと呼ばれても、それを受け入れたんだろう? だったら、俺も。お前に親父と呼ばれても、それを受け入れる。それ以上の、何がある訳でもない。…………お前は。お前は、俺の息子、かも知れない。フレアは、お前の姉、かも知れない。……それで、いいじゃねえか」
そうして、彼は、困り果てた顔のヨミを再び抱き竦めて、十と余年程前、海に還ってしまったとばかり思っていた『息子の名前』を、幾度も幾度も呟いた。
「あの…………。でも、僕は、ヨミ、です……」
その呟きから、遠離るように、ヨミはぽつりと言った。
「………………そう、だな。ああ、お前は、ヨミだ」
「……僕は、あの人が、僕のお母さんだったら、って。そう思いました。僕のお母さんかも知れないって、勝手にそう思い込むことにしました。だから、リノさん、貴方は、僕のお父さんかも知れません。……でも、思い込みは思い込み、だから。僕は、ヨミ、です。物心付いた時から、僕はヨミだったし……。けど、リノさん…………」
「何だよ、改まって」
「あの……。その…………」
「だから、何だってんだよ」
「…………一回だけで、いいんです。一度だけ……。一度だけで、いいから。その……、お父さん、って……、そう呼んでみても、いいですか…………?」
自分かも知れない。
そうではないかも知れない、『彼』の名前。
その名から、遠退くように、自分はヨミだと彼は告げて、でも。
一度だけ、貴方のことを、父と呼んでもいいかと、上目遣いでリノを見た。
「………………お前な……」
すればリノは、抱き締めていた、息子かも知れない彼から、がばりと身を離して、些かムッとしたようにヨミを見下ろし。
又、パカンと、良い音が上がる程、ヨミの頭を叩いた。
「……リノさん、痛い…………」
「お前曰くの勝手な思い込みのまま、あいつには、直ぐ、お母さんって呼び掛けやがったくせに。俺には言えねえのか? しかも、一回だけとは、どういう了見だ。……かも知れない、のままでいい。俺にも、お前にも、かも知れない、のままでいいから。……お父さんでも、父さんでも、親父でも、何でも良い、そうやって、呼んでみてくれ、俺のこと」
したたかに叩かれたそこに、軽く手を当てながら、非難がましく見上げてみれば、大層不服そうなリノに、呼んでくれと求められ。
「え……、ええと…………。……お、お父……さん……」
遠慮が滲む声で、小さく小さく、ヨミは呟いた。
「ん? 何だ」
「お父さん……」
「何だよ」
「………………お父さん……」
……本当は、一度きりの呼び掛けで、二度と父とは呼ぶまいと、そう思っていたのに。
一度のつもりで口にしたその言葉に、当たり前のようにリノが応えてみせたからか、呟きは止まらなくなって、幾度も、幾度も、彼は、お父さん、との囁きを続け。
自身も知らぬ間に、泣き始めた。
「お父さん……。お父さん…………っ……」
「…………これからも、時々でいいから。そうやって、呼んでくれ。な?」
ベッドの上で身を丸め、子供の如く泣き始めたヨミの髪を、リノが撫でれば。
「お父さんが『お父さん』なら、私は『姉さん』よね」
「お、姉さん……?」
「うん。…………お帰りなさい」
それまで黙って二人を見守っていたフレアが、枕辺に近付き、ヨミの頬を伝う涙を拭った。
──その頃には、もう。
軍主の部屋に押し掛けていた、彼等以外の数多の仲間は、黙って姿を消していた。