数多くの、犠牲を払いながら。

エルイール要塞を陥落させ、一人姿を消した軍主を取り戻し、一路、オベル王国を目指して群島の海を進み始めた巨大船に、夜がやって来た。

己達の手で、クールーク皇国の脅威を退けた祝いの宴と、海に還った仲間達を弔う哀しみの宴とが、その夜、人々を乗せて進む巨大船のあちらこちらで入り乱れ、何時まで経っても、船内に、静寂は戻らなかった。

だがテッドは一人、これまでもそうして来たように、船内を覆う騒々しさから逃れる風に、後部甲板の手摺に凭れ、海風に吹かれており。

「…………やっぱり、ここにいた」

喜びの宴、そして哀しみの宴、それ等から抜け出して来たのだろうヨミに、声を掛けられた。

「……悪いか?」

「別に、悪くはないけど。折角なんだから、テッドも混ざれば良いのに」

「冗談。お前こそ、抜け出して来ていいのか? 折角なんだから、おとーさんとおねーさんに、甘えてりゃいいのに」

やって来て、横に並んだヨミを、追い払う素振りこそ見せなかったものの、テッドの口調は相変わらずで、が、吐かれた言葉は、ヨミを邪険にするそれではなく、からかう為のそれだった。

「………………そのこと言うの、止してよ……」

故にヨミは、昼間、大泣きしたのを、テッドにも見られていたのかな、と、恥ずかしそうに俯いて。

「リノさんが、僕のお父さんで、フレアが、僕の姉さんだって。確証は何処にもないんだから、早々は…………」

面を伏せたまま、遠慮がちに言った。

「相変わらず、控え目だな。……あの、セツとか言う宰相のじーさんは、心中複雑なんだろうけどさ。当人達が、それでいいって言ってんだから、堂々としてればいいじゃないか。オベル王家の王子だったからって、あの国をどうこう、だなんて、お前が思ったりする筈もないんだし」

「それは、そうだけど……。正直なことを言ってもいいなら……、僕だって、甘えたいって、そう思わない訳じゃないけど……」

「じゃあ、そうすりゃいいだろ?」

「……でも、そうかも知れない、で、留めておくのが、リノさんにとっても、フレアにとっても、僕にとっても、オベルにとっても、一番いいんじゃないかって、そう思うんだ」

「何で」

「………………紋章が、あるから」

だからどうして、お前はそんなに控え目なんだと、呆れた様子をテッドが見せれば、ヨミは、何処までも俯いたまま、ちらり、と、己が左手に、眼差しをくれた。

「……紋章、ね…………」

「うん……。……多分。多分、ね、罰の紋章はもう、僕に『悪さ』はしない、と思う。多分……、僕の命をこれ以上、削ったりはしないと思う……。でも、紋章は、『紋章』だから。これを宿している限り、僕は永遠、この姿のままだものね。リノさんや、フレアや、皆が逝ってしまっても。だけど、この紋章を手放す気は、ないんだ。他の人の手に渡るようなことがあったら、又、同じことに繰り返しになる。だから……、何時までも僕は、オベルにはいられない」

「…………そう、かもな」

「……僕は、何時かオベルを出て行くのだから。皆にとっても、僕にとっても、『かも知れない』程度の、細やかな拠り所で留めておいた方が、いいんだと思う……。──……でもね、テッド」

手袋越しに、紋章を見遣って、何も彼も、思う通りになんて行かないよねと、ヨミは困ったように笑い。

テッドは、手摺に頬杖付いたまま、曖昧ないらえを返し。

けれど、ヨミは一転、幸せそうな調子の声を上げた。

「……ん?」

「本当のこと、言うとさ。……ずっとずっと、思ってたんだ。『お飾り』でも構わない、流されるように戦うのでも構わない、物心付いた時から目の前にあった群島の海と、育った場所と、大切な人達を守れるんなら、僕はそれで構わないって……、そう思って来たけど。紋章のことも、僕の命のことも、全部、僕だけの問題って、そう思って来たんだけど……。エルイール要塞で、あの巨大樹を倒しても。何となく、ね。何処かで少しだけ、現実味が伴わなかったんだ。何処かが少しだけ、本当じゃないみたいな気がしてた……。こうしてるのが、僕にとっての幸せの筈なのに、どうしてだろう。僕は、何処で何を、落としちゃったんだろう……、って」

「…………それで?」

「だけど、紋章の記憶の世界の中で、お母さんかも知れない人に会えて。リノさんやフレアが、小さい頃から、この世界の何処かにいてくれればいいのにって思ってた、『家族』かも知れないって知って。やっとね、『現実』が、僕にも降って来たんだ。戦って、戦って、そうやって過ごして、その果てに、僕にも掴めるモノがあったんだ……って。戦ってる最中の、じゃなくって。戦いが終わった後の、幸せが、僕にもあるのかも知れないって。得られたモノがあったんだ、って、そう思った…………。…………『かも知れない』でしかないけど……、生きてて良かったな、って……。細やかな幸せも、悪くないな、って……。それを頼りに、生きていけるかな……、って…………」

そうして彼は、幸せな声を放てる、その理由を語り。

そのままその場に踞って、膝を抱えて顔をうずめた。

「………………泣くなよ……」

抱えた膝に埋めた面が、露になってしまわぬように。

ぎゅっと、腕に力を込めて、肩を震わせ、声を殺しながら泣き出したヨミに、テッドは身を屈めて言い、暫しの間、躊躇ってから、ぽんぽんと、そのこうべを、『右手』で撫でた。

「御免……。御免ね…………。テッドだって辛いのに……こんな、情けない話して、御免ね……。……僕も、『何か』が欲しいって、そう思うことがやっぱりあって、だから…………。……御免ね……。御免、テッド……。本当に、御免……っ……」

そうやって、テッドに宥められても、彼が面を上げることも、泣き止むこともなくて。

只、御免の言葉だけが、繰り返され。

「これだけ頑張って来たんだから、幸せの一つくらい、欲しいと思ったって、罰は当たらないさ。唯、クールークとの戦に勝つ為だけに、お前はいた訳じゃないんだし。だから、泣くなって。……罰の紋章を、手放さないって決めたんだろう? その為に、何時か群島を後にすることになっても、不老になっても、生きてくって決めたんだろう?」

「……うん…………」

「だったら、もう泣くな。…………年月は、うんざりする程長いんだ。嫌になる程。なのに、これから先も、生き続けてくんだから。少しくらい、幸せがなきゃ。……そうだろう? ……俺にだって、それくらいの幸せはある。縋れる想い出の、一つや二つ、俺にだってあるんだ。だから、お前だって。…………な? ヨミ」

仕方ないなあ、と、テッドは、泣き続けるヨミの傍らにしゃがみ込んで、そう言ってやった。

目の前にやって来た幸せに、誰憚ることなく縋ればいいのに、自分のことを想って、その幸せすら詫びる、控え目過ぎる彼の為に。

「……どうして、テッドはそんなに、優しいの…………」

「俺は別に、優しくなんかない。こうしてる今だって、誰も俺に構うなって、そう思ってる。……本当に優しかったら、今のお前捕まえて、泣き止むな、なんて言わない」

「テッド…………。──…………うん……。…………御免、もう、泣かない…………。……あ、あのね、テッド…………」

すれば、漸くヨミは、いまだ涙の止まらない、泣き腫らした顔を持ち上げて、懇願するように、テッドの服の裾を掴んだ。

「……何だよ」

「この船が、オベルに着いたら、お別れ、だよね……? ガイエンか、クールークか、赤月に行く船に、乗るんだよね……?」

「ああ。……だから、そうだな。お別れだ。……最初から、そういう約束だっただろ? 俺は、お前達に借りが出来たから、それを返すまでは付き合う、って」

「そう……だよね…………。……だったら、テッド。この船が、オベルに着いて、僕達が別れて。……でも、何年か、何十年か経った時、何処かで再会出来たら、その時は、改めて、僕と『友達』になって? 借りも貸しもない、『友達同士』になって、少しの間だけでもいいから、一緒に旅をしようよ。……それ、約束して…………?」

泣き腫らした目で、縋る如くに、テッドを見上げて。

彼は、約束を、テッドに乞うた。

「………………そう、だな……」

──だから。

果たされるか否かも判らない約束だと、充分過ぎる程に知りつつも。

テッドは、乞われるまま。

「何時か何処かで、再会することがあったら。その時こそ、友達同士になろうな…………。そうなれたら、いいな……」

曖昧に、笑って。そして曖昧に、頷いてみせた。