魂喰らいの紋章を宿してから、霧の船の『船長』に拾われるまでの、百数十年間。
一度足りともテッドは、ゆっくりと眠ったことがなかった。
霧の船に乗り込んでからは、眠ること、そのものを忘れていた。
その後乗り込んだこの船の中でも、やはりテッドには、深く眠ることなど叶わず。
仕方なしに彼は、浅い眠りさえ得られぬ夜には、人々が寝静まった頃を見計らい、全ての者の目を掠めるようにして、この後部甲板に、一人佇むことにしていた。
そこ以外、彼には、行く場所がないから。
──幾度の夜を重ねようとも、彼が浅い眠りしか得られないのは、宿してより一五〇年の時が過ぎても尚、魂喰らいの『力』と呪いに怯えているからだ。
そして、魂喰らいを奪おうとする者達の手に、怯えているからだ。
右手の紋章が恐ろしくて、けれど守り通さなくてはならなくて、彼は、まともに眠ることも出来ない。
眠ることが出来ぬならばせめて、何処かで気でも紛らわせられればマシになるのだろうが、一寸した言葉を交わす程度の知人さえ、彼には得ること叶わない。
己が言葉を交わす誰かが、ソウルイーターの餌食になったら……と、彼はそう考えてしまうから。
他人と関わることを、彼は望もうとしないし、望めない。
故に、彼は一人。
浅い眠りさえ得られぬ夜には、こんな時間には誰もやって来はしない場所で、月明かりや星明かりを弾いて揺れる、水面を眺めていた。
以前よりは、ほんの少しだけまともに、ソウルイーターと向き合えるようにはなったけれど。
それでも彼は未だ、心の何処かで。
何時になったら、こんな生活にピリオドを打つことが出来るんだろう……と、思い煩い続けている。
本当の意味で、魂喰らいと向き合うこと叶って、そうして、決別することが出来る日は、来るんだろうか。
例え、そんな日がやって来るのだとしても、その日がやって来るまで自分は、後何年生き続ければいいんだろうか。
幼かった、あの頃のように。
祖父を探し求めて泣く己の手を取ってくれた、もう、顔も憶えていない旅人の手を、何の躊躇いもなく握り返せたあの頃のように。
誰かに己の手を差し伸べられる日、誰かが己に差し伸べてくれた手を握り返せる日、そんな日がもう一度やって来ることは、本当にあるんだろうか。
何時になったら、何も彼も忘れてゆっくりと、眠ることが出来るんだろう。
…………揺れる、水面だけを見詰めて。
昼の内は蒼く、が、夜である今は、空の黒よりも黒い、水面を見詰めて。
その黒い水面に、過ぎ去った一五〇年の歳月を映しつつ。
唯、一人。
そんな想いに耽るのが、最近のテッドの、新しい習慣だった。
「…………あの」
────だが、その夜。
そんな風に佇んでいる彼の背へ、声掛ける者があった。
けれど、掛けられた声に、テッドは振り返りもせず、無言で応えた。
音もなく、気配も漂わせずふっと近付き、声を掛けて来た相手が誰なのか、振り返らずともテッドには判る。
あの、霧の船を捨てる決心をさせた。
たまたま、自分の目の前に現れた、自分と同じく、真の紋章を宿している彼だ、と。
この巨大船と、巨大船に集った人々の長を務めている、彼だ、と。
故にテッドは、無言だけを返して。
心の中でのみ、溜息を付いた。
紋章を宿し直す処を目撃していたくせに、友達にならないか? とか、一緒に戦ってよ、とか、いいじゃないか、仲間なんだから、とか、そんな風に声を掛けて来ること止めない、彼。
ヨミ、という名の、彼に。
どうしてヨミと言い、この船の連中と言い。
どれ程冷たく突っ撥ねてやっても、自分に話し掛けて来ること止めないんだろう、と。
どうして、こんな真夜中にさえ、自分に近付いて来るんだろう、と。
嫌気を覚えたが為の、溜息を。
心の中で、のみ。
「…………あの。眠れないんだ……?」
しかし、テッドが心中でのみ溜息を零し、無視を決め込んでも。
常のように、諦めることなく、ヨミはテッドへと近付いて、甲板の手摺に頬杖付いている彼の隣に並び、同じように、手摺の上で腕組みをして、そこへ頤を乗せるべく、体を丸めた。
「……聞こえてる? テッド君」
そして、やはり諦めることなくヨミは、テッドへの言葉を続ける。
「…………聞こえてる。眠れないから、こうしてる。それがどうした? 知りたいのはそれだけか? こうしてる理由は教えてやったんだ。もう、それで良いだろう? どっか行けよ」
食い下がるような感じのトーンの、ヨミの声に。
何時までも無視を決め込んでいたら、彼は延々、同じ問いを繰り返しそうだ、とテッドは、本当の溜息を零して、冷たく言い放った。
「……混ぜてよ。僕も、眠れない仲間なんだ」
「…………何度も言ったろ。俺は、誰とも話したくない。誰かに構って欲しいなら、酒場にでも行け。……それに。お前はこの船の船長で、リーダーなんだろ。俺みたいに、こんな所で夜更かししてる場合じゃないだろ」
「……それは、そうなんだけど……。でも、それを言うなら、テッド君だって。こんな所にずっといたら、体冷えるよ」
「………………」
「……あの……聴いてる……?」
「……ああ」
「群島は、常夏に近い所だけど、真夜中過ぎてもこんな所にいたら、風邪引くよ?」
「…………そうかもな」
「……どうして、こんな所に毎晩のように、いるの……?」
けれど、テッドがどれだけ、冷たいトーンで言い放っても、仲間達の間では、寡黙、と評判の筈のヨミは、次から次へと、問いを放って来た。
「…………どうだって良いだろう。これまでに、何度も言った。今だって言った。俺に構うな。俺に近付くな。俺は誰とも話をしたくない。お前達には借りが出来たから、この戦いが終わって、この船が何処か大陸へ着けるようになるまでは、付き合うだけだって。……最初に、そう言ったろ。……頼むから、俺に構わないでくれ。……一人でいるのが、いいんだ。……何だって、そんなに俺を構いたがるんだよ…………」
どうして、こういう時だけ、普段とは比べ物にならないくらい、良く喋りやがるんだ、と。
切れ目なく問いを放ち続けるヨミに、少々うんざりして。
テッドは、これまでにない程きつい声で、彼を退けた。
「…………………………そ、の……」
すればヨミは、ちょん、と頤を乗せていた、己の組んだ両腕の中に、顔の半分程を埋めるようにして。
只でさえ控え目な声を、一層潜め。
「……テッド君が、誰とも友達になんてなりたくないって、そう言うんなら、別に僕は、そこまでは求めない。人なんて、それぞれだし。…………但……」
「……但? 何だよ……」
「気を……悪くさせたら、御免。……但、その…………テッド君は、真の紋章を持ってる、僕以外の人、だから…………」
囁くような、小さな声で呟いて、ヨミは。
チラっと、顔を埋めた腕の中から、水面を眺め続けるテッドの横顔を窺うように、視線だけを持ち上げた。