常夏の群島特有の鮮やかな夕暮れと、迫り来た宵闇が鬩ぎ合うオベル島の、王宮へも続いている坂道を、ヨミは、一人ひっそりと辿った。
通年を通して暑い国の中を行くには相応しくない、薄茶色のマントを頭から羽織った姿で。
それは、目立ってはいけない、自分がオベルに戻って来ているのを大っぴらにする訳にはいかない、との思慮がさせたことだが、少なくとも地元の者が、雨も降っていないのに蒸れるだけの暑苦しい格好をする筈などなく、却って目立ってしまっていた。
けれども、変な処が悪い意味でおっとりしている彼には、己が悪目立ちしていると気付けなかった。
島内中を巡ってリノに頼まれた『人集め』に勤しんでいた、一介の少年だった当時の彼も、連合軍の軍主として在った彼も能く知る、序でに、彼の抱える諸々の事情も弁えているオベルの民達が、疾っくに、『珍妙な格好でそそくさと往来を行く者』の正体を看破しているのも悟れなかった。
しかし、おおらかで──と言うか、細かいことはどうでもいい島民達は、盛大に間違った気遣いを発揮しているヨミを敢えて無視してくれ、故に彼は無事、誰にも呼び止められることなく、オベル王宮の入り口に辿り着く。
「初めて来た場所みたいな気がする…………」
が、逸る気持ちが何時しか急かせてしまっていた足を、彼はその場で、ひと度留めた。
──港から、小高い丘の上に建つ王宮までを貫く長い坂道を辿っていた間に、夕暮れは宵闇に飲み込まれ、南国らしい造りのオベル王宮も、夜の帳に包まれ始めていた。
だから、という訳ではないが、短い間だったとは言え滞在したこともあるそこが、何故か、初めて訪れた場所のように思え、立ち止まった彼は、しみじみと、白亜のそれを見遣る。
「もしかして、ここが、僕の産まれた家なのかも知れない、なんて思っちゃってるのかな……」
そう感ずるのは何故かと、佇んだそこで暫し考え込んだ彼は、やがて、ひょっとすると自分は、舞い上がっているのかも、と思い当った。
…………舞い上がっていて、緊張もしていて、夢まで見てしまっている。
父かも知れない人に、姉かも知れない人に、息子かも知れぬ者として、弟かも知れぬ者として対面することに浮かれ、甘え過ぎて拒絶されたらと怯え、白亜の宮には『我が家』を重ねている。
出過ぎてはならず、身を引き過ぎてもならず、況してや、見果てぬ夢に溺れるなど以ての外なのに、自分は、きっと。
……血は水よりも濃いと言う。血の繋がりは、汚く恐ろしいとも言う。
だからこそなのか、人は、肉親への想いを留められない。それが、愛情であれ、憎悪であれ。
なれども己は、全てを弁え、控えなくてはならない。リノや、フレアや、オベルを想うなら。
「……………………やっぱり、帰ろう」
────佇み、見上げ続けた白亜の宮に、自分は今、『ふわふわ』していると気付かされた直後、つい……、と俯いたヨミは、キュッと、薄茶色のマントの合わせ目を左手で握り締めて引き返し始めた。
こんな気持ちで、リノやフレアに会ってはならぬと思った。
王宮に立ち入ってはならぬとも思った。
今夜は何処かで野宿でもして、明日の朝一番の船で、ラズリルでない何処かに行こう、と決めた。
「おい、ヨミ! どうしたんだ、待ってたんだぞ!」
だが、夜の帳に包まれ切った王宮から飛び出て来た人影──リノが、大声を張り上げ彼を引き止めた。
「え、リノさん? どうして…………」
掛けられた声とその大きさに、ビクリと肩を竦ませたヨミは、そろそろと振り返る。
見付かってしまった以上に、リノの、待っていた、の一言が不思議でならなかった。
フレアへの返信に、『判りました』と、『一度オベルに行きます』と、確かに綴った。大凡の時期も。
でも、今日オベルに着く船に乗るとの報せは入れなかったから、彼が自分を待てる筈ないのに、何故……? と。
「どうして、って、お前……。決まってるだろう。ずっと待ってたんだ。昨日も、一昨日も、一昨々日も。お前が帰って来るかも、ってな。今日だって、落ち着かなくてなー。何度も、ここと中を行ったり来たりして、セツやフレアに叱られた。今もな、さっき船が着いた筈だからと見に来た処だったんだ。だってのに、お前は、何処に行く気だったんだ?」
そんな彼の問いに、リノは、唯々待っていたから、と豪快に笑って、少々強引にヨミの肩を抱いた。
「それは、その……、えっと…………」
「……どうせ、余計なことでも考えたんだろう。来いと言ったのは俺なんだ、お前は何も気にしなくていい。──それよりも。ヨミ」
「はい? 何ですか、リノさん」
「『それ』だよ。リノさん、じゃないだろう。お父さん、だろうが」
「………………でも……」
「でも、じゃない。少しは、親の言うことも聞け。それから、『帰って来た』時は『ただいま』と言うのは知ってるな?」
「…………は、い……。……………………その。じゃあ、あの。……ただいま、お父さん」
そうしてリノは、ガッチリとヨミを捕まえたまま、正しく呼んで、正しく挨拶! と彼に迫り、僅か俯いて頬を赤く染めたヨミは、小さな声で、父へ帰郷を告げた。
「ん、良し! …………お帰り」
すれば、彼の肩に廻ったリノの腕には益々力が籠り、
「お帰りなさい。ヨミ」
「……ただいま、フレア姉さん」
優しく答えてくれた声に促されるまま振り返った先に立っていたフレアへも、彼は、気恥ずかしそうに言った。
想像に違わず、宰相のセツだけは、再びオベルの地を踏んだ彼を目にするや否や、甚く複雑そうな色を頬に掠めさせたが、以前から、リノにもフレアにも、「セツは、罰の紋章を気にしているだけで、お前を疎んでいる訳ではない」と、再三再四言い聞かされていたし、ヨミ自身、彼が、影では自分のことを、良く励んでいると思う、と評価してくれているのを知っていたので、そんな彼へも控え目な笑みを向けて挨拶も告げたヨミは、リノ達に引き摺られるに任せ、案内された、王宮の奥の一室に腰落ち着けた。
途端、半ば宴の如くだった盛大な夕食会が始まって、彼は、この半年間、ラズリルや騎士団の仲間達やスノウと共に過ごした、忙しないなれど楽しく穏やかな時間とは少々違う、暖かい、と例えるに相応しいひと時に浸る。
言うまでもなく、リノは、良く呑み良く食べ、常以上に明るく振る舞い、フレアも、始終朗らかだった。
そんな二人に釣られ、ヨミも又、控え目ながらもこの数ヶ月の出来事を語って、幾度も笑んだ。
……それは、その席が、心より楽しめるものだったからでもあるが。
群島解放戦争に終止符が打たれたあの日を境に、彼が、少しずつ、傍目にも判り易い形で、自身の感情を表せるようになってきている証でもあった。
見る者が見れば、との但し書きは付くものの、ヨミとてそれなりには表情豊かだけれど、話下手であると同時に、喜怒哀楽の表現も下手且つ細やかな為、感情の起伏に乏しいと思われがちで、そして、それまでの彼がそんな風だったのは、やはり、自身の育ちに理由の大部分がある。
だが、クールークとの戦いだけでなく、『罰の紋章との戦い』をも制せたあの日、自分にも『戦いを終えた後の幸せ』があったのだ、と悟れたのを切っ掛けに、彼の内面は変わりつつあった。
彼が守り通した全てを包む群島や、歴史が、移り変わりつつあるように。
────そうして、ヨミが、とてもとても幸せな気持ちになれたその席が終る頃。
「ヨミ。一寸付き合え」
お開きの気配を察し、ひょいと立ち上がったリノが、有無を言わさず彼の腕を引っ掴んだ。
「え、あの……?」
「あ! お父さん、狡いわよ。私だって、ヨミに付き合って欲しいことがあったのに!」
いきなり何を? と戸惑いながらもヨミも腰を浮かせ、が、フレアは、父に抗議を放つ。
「悪いな。早い者勝ちだ。──じゃ、行くぞー!」
しかし、リノは、大人げなく娘相手に威張ってみせて、ズルズルとヨミを引き摺り始めた。