甚く上機嫌な足取りのリノが、ヨミを引き連れ向かった先は、王宮の外だった。

朝も夜も早いオベルの民達の姿はもう見えない、所々に、ほんの申し訳程度の灯りが灯っているだけの暗く長い坂道を降り切った先の、港の桟橋。

先程の宴の際とは打って変わって、めっきり口数を減らしていたリノは、同じく黙って付き従ったヨミを、オベル湾の向こうの外洋を突き刺す風に伸びる幾つかの桟橋の、最も中央にあるそこの尖端へと導く。

煌々と灯る港の常夜灯の光も半端にしか届かぬ、薄暗いそこに二人は並んで腰掛け、揃って、時折だけ夜っぴて灯り続ける綺麗な橙色とうしょくを煌めかせる、されど昏い水面を見詰めた。

「……えっと。リノ──あー……、お父……さん?」

「んーー……?」

そうした風情になった彼等の沈黙は長く続き、が、やがて、無言を居心地悪く感じたのか、そろっと見遣ってきたヨミに、リノは、恍けた声の返事をしてからニカッと笑んで、懐から酒瓶を引き摺り出した。

「あー……。未だ、飲むんですか?」

「ああ、勿論。────実はな、十五年……じゃなかった、もう、十六年も前か。女房が──あいつが逝っちまって、息子まで行方が知れなくなった、あの日の夜。浴びる程酒を飲んでも足りなくて、一人ここまで降りて来て……海を眺めながら、一晩中飲んでたんだ。……飲んでも飲んでも、足りなかった。何も振り払えなかった。俺を、俺達を残して、あいつが死んじまった。だってのに、息子は群島の海に盗られちまった、ってな」

「……そう、だったんですか…………」

真夜中の静寂の中、キュポン、と酒瓶のコルク栓を引き抜く音を立てたリノは、遠い昔を振り返りつつ語り出し、故にヨミは俯く。

「フレアが産まれた時も、小躍りしたくらい嬉しかったが。息子が産まれた時だって、そりゃあ嬉しかった。……男親にとって、息子ってのは、娘とは又違った感慨を抱くもんでな。年頃になったら一緒に酒が飲める、女共には判らない話だって出来る、みたいな夢を見ちまうんだ。何たって、男同士だから。…………でも、俺のそんな夢も、十六年前のあの日に終わった。──と思ってた。だが、終わってなんかいなかった。……だからな、ヨミ。ここで、俺と一緒に、酒を飲んでくれないか。親父の夢を、叶えてくれないか」

苦く辛いだけの思い出話に面を伏せてしまった彼の肩を抱き、リノは、ほれ、と酒瓶を突き出したが、

「えっ? あ、あの、僕、お酒はあんまり……」

パッと顔を上げたヨミは、慌てて、ぷるぷると首を横に振った。

「嘘こけ。……知ってるぞ、そこそこにはイケる口だって」

「で、でも、僕は未だ、群島ではお酒飲んじゃ駄目な歳で、その……。あの……、じゃあ、少しだけ……」

けれど、酒瓶は突き出されたままで、遠慮がちに瓶を受け取った彼は、直接口を付け、二口程飲んでから、リノへ返した。

「これが、空になるまで付き合わせてやるからな」

リノも又、直に酒を飲み下し、迷惑な宣言をしつつ、くはぁーーー! と豪快に息を吐く。

「リ……お父さん。それは一寸、その……年寄り臭いと言うか……」

「…………うるさい。俺はもうオヤジだ。何時、何処の馬の骨とも判らん奴に持ってかれても不思議じゃない歳になっちまった娘と、こうして一緒に酒が飲めるようになった息子がいるんだぞ。仕方ねえだろう」

飲ん兵衛な中年の典型と化しつつある彼へ、思わずヨミが突っ込めば、リノは屁理屈を捏ねながらも、ヨミの肩を抱いたままの腕を引き、一層、抱き寄せた。

「………………幸せだ、と思う。……ヨミ。お前は、『かも知れない』で留めておきたいんだろう。それ以上を望むつもりも、踏み込むつもりもないんだろう。俺も、それでいいと思ってる。あの時言った通り、『かも知れない』のままでいい、と。……でもな。それでもお前は、俺の息子だ。フレアと同じ、俺とあいつの大切な子供だ。……お前とこうしていられて、酒が飲めて幸せなんだ。夢が叶った。これ以上嬉しいことはない。…………有り難うな」

「お、父さん…………」

逞しくて暖かい腕に包まれながら、そうリノに告げられ、ヨミは怖々と、彼の肩に頭を乗せる。

「……僕も、本当は嬉しくて、幸せで……。…………本当は、本当は……、少しだけ、甘えたかったんです……」

「…………そうか。────じゃあ、もっと飲め!」

「えっ? だから、あの、沢山は駄目です。フレアにも叱られ──

──そうよ。沢山は駄目よ。……んもう、お父さんたら! 分別のある大人のすることじゃないでしょうっ」

これくらいの甘えなら、許して貰えるかも知れない。──そう期待して、そうっと、こめかみ辺りを押し付けてきた『息子』の頭を、リノはわしゃわしゃと撫でてより、一転、陽気な声で、親子水入らずの酒盛りはこれから! とはしゃぎ始めたが、何時の間にかやって来たフレアが、『弟』を困らせる我が儘っ子のような父の手から、ヨミを奪った。

「フレア? お前、何時来た?」

「フレア……姉さん」

「何時だっていいでしょう? おとうさんばっかりが、ヨミを独り占めするなんて、許しませんからね」

人が近付いて来る気配など、微塵もしなかったのに……、と、そっくりの仕草でフレアの登場を訝しがったリノとヨミを尻目に、父から奪った彼の隣に腰下ろした彼女は、自身の腕を、彼の腕へガッチリ絡ませつつ、いそいそと懐から何やらを取り出す。

「ん? フレア、そいつは」

「ええ、そう。『あれ』。──あのね、ヨミ。以前、あの船の目安箱に入れた手紙にも書いたことなんだけれど……、これは、母の形見のオルゴールなの」

彼女が、ヨミの眼前に差し出したのは、掌に収まる大きさの、鮮やかで綺麗な装飾が施されている小箱だった。

それも、只の小箱でなく、オルゴール。フレアが告げた通り、彼女の母の形見の。

「やっぱり、あれに書いたことなのだけれど、とてもいい音色なのよ。──オルゴールってね、本当は、もっとずっと大きな、家具みたいな感じの物が普通なんですって。こんな風に小さく作るのも、小さなオルゴールに綺麗な音を出させるのも、凄く難しいらしいの。しかも、群島に、これを作れる人はいないそうなの」

「へえ……。それは知らなかったです」

「ヨミは、オルゴール、聞いたことある?」

「…………いえ。スノウのお母さん──フィンガーフート伯爵夫人が持ってたから、能く、綺麗だなあ、って眺めてましたけど、聞いたことは……。あの家の物に勝手に触ると叱られましたから」

「そう……。…………ね。母の形見のオルゴールを、今度一緒に聞いてみる? って私があの手紙で誘ったの、憶えてくれてるかしら?」

「ええ。憶えてます」

「なら。今、一緒に聞きましょうよ。ね? ほら、お父さんも」

照れ臭かったのだろう、手の中のそれを暫し弄ぶようにし、今語らずとも良いことを少々喋ってから、フレアは、ヨミの手にオルゴールを乗せ、彼や父が見守る中、そっと小箱の蓋を開けた。

極々微かに、蝶番の軋む音を立てながら蓋が持ち上げられた途端、真夜中の桟橋に、波音さえ掻き消した程に甲高い、本当に綺麗な曲が響いた。

金属が奏でているからか、綺麗だけれど、少し物悲しい、とヨミは感じた曲が。

「……これ、何て言う曲なんですか?」

「曲名は、私も知らないの」

でも、綺麗なことは確かだし、お母さんかも知れないあの人は、この曲が好きだったんだろうな、とも思って、曲の題を尋ねた彼に、フレアは小さく首を振り、

「トロイメライ」

彼女の代わりに、懐かしそうな声でリノが答えた。