暗黙の内に、この話にはもう二度と触れぬと、カナタもセツナも決めたけれども、やはり、説教を切り上げて後も、カナタの機嫌は悪かった。
──彼にしてもセツナにしても、基本的には異性のみが恋愛対象であり、同性愛の嗜好を持たない彼等が、それでもそういう間柄なのは、性別がどうの、という部分を遥かに超越した諸々が理由で、故に、セツナの外見年齢と釣り合いが取れる年頃の少女達には、何時かセツナが気を惹かれることもあるかも知れない、と意識を払い続けてきたが、見た目が見た目だし、仕草その他も子供っぽいセツナに、同性が興味を示すなど滅多に有り得ない、とカナタは、今まで半ば高を括っていた。
縦しんば、そんな輩が出没したとて、セツナがそちらを振り返る可能性は皆無だとの確信もあったし、何者が相手であろうとも、毛筋程も、彼の気をそちらに向かせるつもりもなかった。
なのに、その、有り得ない、と考えていた輩が本当に出現し、しかも、セツナ相手に性的な乱暴を働く寸前までの狼藉を許してしまった、などという現実より感じる怒りを、彼が、そう簡単に収められる筈もない。
何も彼も、あの軟弱な馬鹿男に非があって、セツナが悪いのではない程度のこと、最初から頭では判っていたものの、感情が言うことを聞かなかった。
事、セツナ絡みのことに関してだけはなけなししかない理性に留められたので、命を奪うような真似はしなかったが、本音では八つ裂きにしても飽き足らなかった軟弱な馬鹿男を、せめて半殺し程度の目には遭わせておくんだった、と幾度も幾度も悔み、「大体、セツナもセツナだ。僕に黙って出掛けたりするから……」と、彼への文句を頭の片隅で垂れ流すのも止められなかった。
────カナタの、そんな感情や態度は、過激であり過剰でもあるものの、大切な恋人が危うく……、という事態に遭遇した者のそれとして、当然と言えば当然だが。
彼の心の奥底の、更に深淵に潜む、不安の表れでもあった。
……そう、打ち明けて言うと、本当は彼は、不安と隣合わせにいる。
少しでも油断をしたら、魂喰らいの紋章にセツナを盗み喰らわれるかも知れない、との不安と、魂喰らいに盗られたくない余りに、出逢った直後から百年以上、惨い行いばかりをしていた己の手の中から、何時の日か、セツナはするりと逃げ出してしまうかも知れない、との二つの不安を抱え続けている。
彼の、セツナに対する過保護や独占欲が、凄まじい、の域にまで達している理由の一因も、そこにある。
…………覚悟を以て、親友より魂喰らいを引き継いだ彼が、以降辿った運命を思えば、同情の余地はあるのだろうが、だからと言って、三桁に達するまでの年月、セツナ相手に酷い扱いをした言い訳にはならぬし、自業自得である部分も多大で、それでもカナタを選んだセツナが、彼に愛想を尽かすなど有り得なく、セツナはセツナで、己の方こそ、何時かカナタに愛想を尽かされる、と未だに怯えている節がなきにしもあらずなのだが、どうしたって、カナタは不安で仕方ないのだ。
そんな己の心情を、月の紋章の宿主であり、吸血鬼の始祖でもあるシエラ辺りに知られたら、鼻で嗤われつつ、「ならば、さっさとセツナと別れて世界の果てにでも消え失せろ」とか何とか言い捨てられるだろうのも、今更思い煩ったとて馬鹿馬鹿しい事この上ないそれなのも、重々承知はしているのだが、この手のことの理解と対処は別次元なので、八つ当たりだな……、と自嘲しながらも、彼は、その日の就寝を迎えても、一人悶々とし続けており。
お休み、と言い合って、一人用の狭い寝台に二人潜り込んで暫くが経っても、セツナは眠ろうとしなかった。
彼が起きているのに気付いていたカナタも又、部屋の片隅に本当に小さな燭台を灯したままの薄闇の中、半眼でいた。
それは、例え相手が恋人であろうとも、傍で誰かが起きている限り、決して眠らないカナタの習慣の所為であり、思うことがあり過ぎて眠りに嫌われた所為でもあった。
だから彼は、寝返りを打つ振りをして、壁側を向いて横になっているセツナに背を向け、ぼんやりと浮かび上がる部屋の床を、唯、見詰めていたのだが。
もぞもぞと蠢く気配と、衣擦れの音がした途端、ぴと……っと、カナタが己よりも決して先に眠らぬのを知っている彼に、背中に貼り付かれた。
「……セツナ?」
「カナタさん、昼間のこと、本当は未だ怒ってますよね?」
「…………そんなことは。それに、あの話は、もうお終いにしただろう?」
「誤魔化したって、僕には判りますぅ、だ。カナタさんは、もう、どうってことないって顔してたつもりかもですけど、ずーっと機嫌悪そうにしてたの、知ってますよ」
「それは……、うん、まあねえ……」
獲物を羽交い締めにするおんぶお化けの如く、ビッタリ添った彼の主張を、吐いた溜息と共に認め、くるりと振り返ったカナタは、伸ばした腕の中に彼を囲う。
「セツナの所為じゃないって、頭では判ってるんだけど。上手く気分の切り替えが出来なくて、一寸、ね。あの、見るからに軟弱な彼に、もう少しくらい思い知らせといても良かったかな、とかも思うし」
「カナタさん、嘘は駄目です」
「嘘?」
「はい。嘘です。………………カナタさん。僕には、何時もと同じことしか言えませんけど。僕は、何処にも行きません。ずーっとカナタさんの傍にいます。だから、だいじょぶです、カナタさん。……ね? カナタさん。────大好きですよ、カナタさん」
今宵だけは、何も彼もを拒絶する風な背を晒していた彼が、漸く自分を抱き締めてくれたと、にっこり笑んで、ひたすら縋り付きつつ、セツナは言った。
もう、何度繰り返したか、何度カナタに与えたか、数えようもなくなった言葉を。
「……うん。僕も、君が大好きで、君を、嘘偽りなく愛しているよ」
「……はい。……だから、カナタさん。もう、そんな顔しちゃ駄目です」
「え、どういう顔?」
「何となく、何か思い詰めてるみたいな顔」
「…………僕は今、そんな顔してる……?」
「ええ。らしくない顔してます。眺めてる僕の方が、辛くなっちゃうような顔」
「そっか……。……御免ね、セツナ」
「いいえ。カナタさんの所為なんかじゃ……。……でも…………」
それでも、酷く思い詰めている風な、何かに苦しんでいる風な、セツナが言う通り、らしくない色はカナタの面より消えず、セツナは、困ったように薄く笑んだ彼を眺め上げ、僅か考え込んだ後、思い切ったような目をし、えい! と精一杯伸び上がると、チュ……と小さな音を立てて、細やかな接吻を、自らカナタへ捧げてみせた。
「セツナ……」
「僕は、ちょっぴり苛めっ子でも、ちょっぴり性格複雑骨折でも、どうしても勝てなくっても、何時も通りのカナタさんがいいです」
「…………セツナ、本気で慰めてくれてる?」
「そりゃー、勿論」
その直後の言い草に、む、と眉間に皺寄せつつも、カナタは、ほんわりと笑ったセツナを抱く腕に、ギュッ……と力を込めて、
「疑わしいなあ、その科白。……でも、セツナ。だから、僕は君が愛おしいよ」
掻き抱かんばかりにした小さな彼の唇を、吐息ごと、深く奪った。