────馬を急がせている己以外、誰もいる筈のない街道で、叫んでみた開き直りの一言が夜風に流れた途端、何処からともなく、クスリ、と忍び嗤ったような声が聞こえ、
「…………誰?」
強く手綱を引き、セツナは馬を止めた。
遠い昔にも感じた背筋が粟立つ不快さを覚え、逃げた方がいいかなー……、と脳天気に彼は考えたが、どうせ、逃がしてはくれないだろう、とも踏み、漂う気配に落ち着きを無くし始めた馬の首筋をポンポンと叩いて宥め、トン……と身軽な風に大地へと飛び下りて。
「出て来てよ。そこにいるんでしょ?」
何も浮かんではいない闇へ向け、彼は語り掛けた。
「覚えているか?」
のほほん、としたトーンにも聞こえる、が、確かに厳しい声音でセツナが問えば、ゆらり……と闇が震えて、人の形に競り上がった。
「………………え? 貴方……」
姿現したそれを最後に見掛けたのは、草原の大地にて、遠い昔に……だったけれど、見覚えは有り過ぎ。
「お久し振りですねー、ユーバーさん」
一瞬だけ、その面より色を失くし、けれども直ぐさま何時もの表情を取り戻してセツナは、現れた者へ恍けた台詞を投げ掛けた。
「相変わらずだな、ガキ」
歌うようなセツナの声に、現れた者──ユーバーは、唯、愉快そうに嗤う。
「相変わらずって言われても、困っちゃうんですけどねー。そっちだって相変わらずでしょ? グリンヒルでやりあった時とも、ルックと何かやってた時とも違う格好してるみたいですけど、真っ黒クロスケなのは変わらないみたいだし。まー、周り真っ暗ですから、能く判りませんけどねー」
ヤな嗤い方……、と心の中ではムッとしたけれど、ほえほえとした雰囲気は崩さず、少しずつ、少しずつ、セツナは後退した。
「見付けた。やっと、見付けた」
だが、ユーバーは、セツナの言葉に耳を傾けたりはせず、硝子細工のような瞳に燃える色を宿し、低く、怨嗟を呟く。
「永遠に変わることない、我が憎悪の元凶。我が悪夢の元凶」
……その声音は、それはそれは低く、ともすれば、風に流れて消えそうな程か細くあるのに、辺り一帯を覆い尽くさんばかりの、重々しい怨嗟のみに満ちていて、
「あー……何か遠い昔にも、そんなこと言われたよーな覚えがあるよーな、ないよーな……。…………えーーーと。で? 僕に何か用ですか? 僕、急いでるんで、ちょーーーっと今は『お話し合い』、遠慮したいんですけど」
この状況、洒落になってない気がする、とセツナは、己が身を夜の闇へ溶け込ませてしまおうとした。
「人間は、死出の旅路を急いだりはしない生き物だと思ったがな」
けれど。
「…………いい加減にしてくれると……嬉しい……んだけど、なっ!」
同盟軍の盟主だった頃、散々手子摺ったユーバーという異形の戦士は、それを許してくれる程甘くは無く、問答無用で振り下ろされた剣を、ガキッとトンファーで受け止めて、セツナはとうとう、感情を露にした。
「貴方が何を恨んでるのかなんて知らないし、興味もないけどっ。憎悪だの悪夢だの言われたって、僕には心当たりなんてないっっ」
剣を弾き返し、軽やかに身を翻し、トンファーを操りながら彼が叫べば、又、異形の戦士はくすりと嗤った。
「大体、貴方何でここにいるのっっ」
「……知りたいか?」
「そりゃー、もう。後学の為に」
「………………小僧。お前、魂喰らいの宿主に益々似て来たな。この世で最も呪われた紋章の宿主。けれど。『最も祝福された紋章』でもある魂喰らいの持ち主に。……この世で最も呪われた、そして祝福された紋章の宿主と、この世で『最も呪われる紋章』の宿主と。似て来ると言うのは、笑い種だ」
嗤いながら、戦いながら。ユーバーはセツナへ向けて、そんなことを語る。
「……もしもしー? 人の話、聞いてる? 僕は、貴方がどうしてここに来られたかを訊いてるのっっ」
「……それか。──永遠に変わらぬ、我が憎悪の元凶、我が悪夢の元凶、それを俺は求め続けているのだから、お前達を見付ける程度のことは。…………と言いたいが。俺を呼び出す方法を知っていた者に、お前達の居場所を教えられたからだ」
『理由』を知りたいか? と言い出したのは自分の方なのに、訳の判らないことばかり喋り倒すなんて、どういう了見っ! とセツナが喚けば、ユーバーは漸く、ああ……という声を絞って、簡単な事情だ、と。
「何だか……話が良く見えない……」
「そうか?」
「でも、貴方がここにいるのは、僕を殺したい……からだよね? きっと」
「解っているじゃないか。何も知らない割に」
そうして、ユーバーは。
厳しい顔を崩さぬまま戦い続けるセツナの前で、ポウ……、と何かを光らせ始めた。
恐らくは、紋章を。
「………………え……?」
────その時。
それまでユーバーと互角に戦っていたセツナは、その手許で輝き始めた光に、ほんの一瞬、目を奪われた。
……もしも、もう少しだけ。
かつてグラスランドでルックが起こした戦いに、彼とカナタが深く関わっていれば。
もう少しだけ。
その時のことを、深くルックと語り合っていれば。
その光に目を奪われたりはしなかっただろうが。
真の紋章……? と、『何も知らない』セツナは、ユーバーが灯らせた光に釘付けになり、思い掛けぬ速さでその身を霞ませたユーバーに、嬉しそうに笑まれるまで動くこと敵わず。
『ほんの一瞬』が、勝敗の行方を分けたのだ、と気付いた時には既に。
生温い何かが胸の辺りから沸き上がってる……、それだけを感じながら、音を立てて、闇色に塗り潰された大地の上に倒れていた。