だから彼は、今日もこうして、世界を漂うように生きている。

誰にも語らなかった、その生涯の中で幾度となく味わった、後悔や、嘆きや、罪悪に苛まされながらも。

何故なにゆえか、心の奥底から消えない、「こうしているのは多分、己にとっても『何か』にとっても、必要なことなのだ」、その『囁き』に、無言の頷きだけを返している。

……それはもしかしたら、炎の英雄と呼ばれた親友、トワの、或る種の潔さに対する反発かも知れない。

己が大事と信じたモノの為だけに戦うと、真っ直ぐな目で公言してみせて、本当に、大切なモノのみの為に、何年も戦い抜いて、戦いが終わった途端、大切なモノの為に紋章すら捨て。

不老の命と引き換えに、最愛の者との静かな生活と、味わう間すら与えられぬ、短い短い余生とを得た、大切で、憎らしくて、懐かしくてどうしようもなくなる、親友へ対する反発。

…………自身がそれと見定めた、自身のみに大切な存在だけを守り続け、戦い続けること、それは、確かに尊く。

けれどそれは、醜い。

守れるモノは、叶うなら、全て、と、そう考えることの多いゲドと、親友の考えは、どうしたって、今でも決定的に折り合わぬから。

親友の中に在った、『最後のひとかけら』を理解すること出来なかったが故に、ゲドは、二〇〇年の年月を生きても、紋章を宿し続けているのかも知れない。

でも、理解出来なかった親友の『最後のひとかけら』は、裏を返せば羨ましいと言えるそれで、だから、彼は、『そうして』いるのかも知れない。

……本当のことは、結局の処、彼自身にも判り得ぬけれど。

何も彼も、推測でしか、ないけれど。

彼は多分、『当分の間』は、今日までそうして来たように、真の紋章を宿したまま生き続けるのだろう、それだけは言える。

己の中から沸き上がる囁きに、無言の頷きだけを返して。

「……海ではなくて。草原が見たいな、久し振りに…………」

────通りすがりに聞き留めた、何者達かの会話を耳にし、立ち止まり、歩き出した彼は。

己を待っている風な仲間達の傍へと向いながら、ふと。

海を振り返った。

波止場の向こうに見える、一面の蒼を見詰めて、ふと。

懐かしい、グラスランドの草原を思い起こした。

「……海ではなくて。草原が見たいな、久し振りに…………」

────擦れ違った、背が高く、体躯も良い、傭兵と思しきいでたちの、齢にして、三十代後半かと推測出来る男が洩らした独り言を拾って。

「草原、か…………」

見ず知らずの男のそれに引き摺られたように、彼は、男が見遣っていた一面の蒼を、己も又立ち止まって、茫洋と眺めた。

────物心付いた時から、彼の傍には、何時でも海があった。

彼の育った場所は、決して大きいとは言えぬ島で、否応なしに、そこに海があるということ、それは彼の、運命の一部だった。

……海と共に在ることは。

彼の意思の外で決められた、どうしようもない運命の一部だったけれど、小さな小さな子供だった頃から、彼は海が好きだった。

──彼の育った島、ラズリルに住まっていた、彼をも含んだ少年達には、大まかに言って『二つの道』があり、その内の一つは、漁師として生計を立てること、そしてもう一つは、海上騎士団に入団し、騎士になること、だった。

ラズリルは、ガイエン公国領ラズリルという、ガイエン公国の重要拠点の一つだったが為、海上騎士団が置かれていたから、『騎士様』に憧れ、己も海上騎士団の一員になるのだと願う子供は、少年にも少女にも多く、『騎士様』に憧れていた訳ではないが、彼も又、己も、騎士団の一員になれるならと、そんなことを夢見た。

言葉も喋れぬ赤子だった頃、難破したらしい船の破片に乗り、大海を漂っていた所をラズリルの民に拾われ、世間体、という代物の為に己を引き取ったラズリル領主・フィンガーフート伯に育てられた彼は、体面上は養子として、実質は、フィンガーフート伯子息、スノウ・フィンガーフートの『守役』兼世話係として、その幼少期を過ごしたから。

フィンガーフート家でどのように扱われたかは、まあ、兎も角、孤児だったのを育てて貰った恩義がある故、己の行く先を、己自身の意思で決められはしないだろうと、彼は幼子の頃から、そんな風に、半ば『諦めて』おり。

だから彼は、諦めながらも、願ってもいいなら海上騎士になりたいと、心秘かに思っていた。

海は好きだったし、船も好きだったし、何より、立派な騎士になって、船にも乗れるようになって、ガイエンやラズリルを取り巻く大海と、大海に点在する、群島と呼ばれる島国達を巡ってと、そう出来るようになれば、自由というものを実感出来る気がしたし、世界の何処かで生きているかも知れない本当の家族に、巡り逢えるような気もしたから。

叶わぬ夢かな……と、やはり彼、ヨミはそれを、諦めてはいたけれど、それが彼の、秘められた、『有り得ない』願いだった。

……が、ラズリルの島の子供達が、皆一様に『騎士様』に憧れたように、彼を、『親友』と呼ぶスノウも又、『騎士様』になるのだと言い出したから、スノウの身の回りの世話をする為、ヨミも又、海上騎士団に入団出来るよう、フィンガーフート伯が計らったので、思い掛けず彼は、願いを果たした。

…………けれど、運命と呼ばれる『某か』は、誠に無慈悲で、見習いでなく、正式に海上騎士団の騎士となったヨミに、想像もしていなかった『先行き』を与えた。

罰の紋章と呼ばれる、二十七の真の紋章の一つを宿し、群島の島々を侵略しようとしていた、クールーク皇国との戦いを生き抜く、との『先行き』を。

────その頃、ヨミは、十七歳前後、だった。

今、こうして、温暖な国の賑やかな波止場に、一人佇んでいる彼が、真の紋章を宿し、一軍の長として、皇国の侵略を防いだのは、彼が未だ少年だった時代の話で、遡ること、約二五〇年前のこと。

今日こんにちでは、群島諸国連合と呼ばれている、南国の島々を、ヨミが仲間達と共に渡り歩いていたのは、もうそんな古い時代の話で、故に彼はそろそろ、齢二七〇歳程度にはなる。

その力を振るう度に、宿主の命を削り、宿したら最後、三年と生きてはいられぬとされ、気紛れに人間の間を『移り住む』、そんな、己が宿した罰の紋章の正体を知ってよりずっと、それ程の長きに亘り、己が生き続けるなどとは、ヨミ自身も思ってはいなかったけれども。

それでも彼は、生きている。今尚。

自身の命を費えさせたら、左手に宿った罰の紋章が、又、『移り住む』先を変えて、『移り住んだ』者の命を削るから、それだけは……と、ヨミが心に決めた所為か、それとも、幾度となく、戦いの為に、仲間達の為に、罰の紋章の力を振るって、けれど逝かずに耐えたヨミを、『己』に相応しい宿主と罰の紋章が定めたのか、それは不確かなままだが。

生きてる。彼は、今でも。