────幼かった頃から、一つだけ。
彼、ヨミには、誰にも負けなかったことがある。
それが何かと言えば、心の内を、誰にも悟られぬように、押し隠すこと。
実の親も、兄弟姉妹もおらず、育ての親は『親』ではなく、兄弟とも従兄弟とも言える風に、共に育った親友は、真実の『親友』ではなく。
そう言い表すことは、ヨミ自身大嫌いなのだが……、所詮彼は、拾われた孤児で、『使用人』だったから。
喜怒哀楽を押し殺し、理不尽なことを与えられても己を殺す、そんなことばかりが、彼は得意だった。
そして、そうやって自分を守って来た所為か、彼は、クールーク皇国と戦う一軍の長であり、その軍の本拠だった巨大船の船長となっても、口下手で、過ぎる程に控え目で、大人し過ぎる質をしていた。
どうしてそんなに遠慮深いのかと、荒っぽいが、気は良かった仲間達に嗜められても、壁の片隅で咲く花のように、ひっそりと自分を収めてしまうような処が、彼にはあった。
それに。
長年の癖という奴で、彼は、或る意味での『諦め』も早かった。
言うまでもなく、彼とて、十代後半という若輩の年齢で、手練の海賊や、したたな軍人や、一癖も二癖もある者が数多くいた軍を率いられるだけの器を持ち合わせていたから、諦めて良いことと、諦めてはならぬことの区別は、きちんと付けていたけれど。
事、『己のみ』に関する諦めを付けるのは、恐ろしい程早かった。
……そんな彼が、最も早く『諦め』を付けたのは、罰の紋章、だった。
無論、彼とて人だから、罰の紋章がどのようなモノなのかを知っても、あっさりそれを受け入れられはしなかったし、簡単に死ぬつもりもなかったけれど、何時か、己が身は紋章に喰われるかも知れない、との認識を得るのと、己の死期が早まっても、仲間達や戦いの終結の為に紋章を振るうこと求められるなら、躊躇うことなくそれをしよう、との決断に、彼は、躊躇いも、戸惑いも、覚えなかった。
自分が死んで、全てが片付くなら……なんて、そう考えた訳ではないが、そうなっても仕方がない、程度の覚悟は、簡単に、彼の中に生まれた。
けれど、お飾りでも構わない、流されるように戦うのでも構わない、と、己を押し殺し、海と、育った場所と、大切に思える仲間達とを守る為、それだけの為に駆け抜けた戦いが、終わろうとする頃。
物心付いた時から、眼前に広がり続けていた大海の向こうに、「いてくれたらいいのに……」と願い続けた、『家族』かも知れない人々の存在と。
ラズリルを後にしてより、ずっと『見続けて来たモノ』、それが掴ませたモノ、それ等が、『諦め』の早い彼の中に、一つ、灯火を灯した。
その為彼は、生き続けており。
どうしようもなく碌でもない『紋章』を宿しながらも、生き続けており。
「……久し振りに、群島に戻りたいなあ………………。やっぱり、海は、好き……」
罰の紋章と共に、生き続けている彼は、ぼんやりと眺めた一面の蒼を見て、独り言を洩らすと。
「…………あ。お饅頭屋さん……」
ふらり、気紛れに身を翻し、ふらふら。
視界の端に見付けた、露店の一つに、足先を向けた。
んーーーーー…………、と。
永い旅の連れである片割れが、物欲しそうに唇を窄めながら、ふらぁと首を巡らせたのが、彼には判った。
片割れである『少年』の、視線を追ったら。
何の気無しに『少年』が目を留めたらしい相手──彼の見掛けと大差ない年齢らしい、腰に双剣を差した、五分丈の黒い上衣、それと揃いと思しき半ズボン、といういでたちの、やはり少年が、その波止場には何時も並ぶ露店の一つで、饅頭を買い求めているのも、彼には判った。
だから、……ああ、と彼は苦笑して。
「おやつ、食べたいの? セツナ。お腹空いた?」
双剣を携えた少年ではなく、少年が露天商から受け取った、湯気立つ饅頭をじっと見詰めている片割れへ、問い掛けた。
「……お腹が空いたっていう訳じゃないんですよ。でも、一寸、その……いいなあ……って」
すれば、彼の片割れは、えへ、と、誤摩化すような笑みを浮かべて、薄茶色の瞳を、きらきらさせた。
「…………じゃ、乗船受付の列に並ぶ前に、お饅頭買おうか」
セツナ、と彼が呼んだ片割れの、そんな様子を眺め、目は口程に物を言うとは、良く言ったものだ、とか何とか考えつつ、彼が誘ってやれば。
「はいっ! ……でも、カナタさん、甘い物……。いいんですか?」
一層瞳を輝かせつつも、セツナは、カナタと呼んだ彼への遠慮を見せ。
「一つくらいなら、付き合えるよ。もう何年も何十年も、セツナの、『甘い物が食べたいです!』に、付き合って来たからね。セツナみたいに、五個も十個も、食べられないけど」
気にすることないよと、カナタと呼ばれた彼は、微笑みを湛えた。
────カナタ・マクドールと、セツナ。
この、永い永い旅路の片割れ同士である、二人は。
その港町の波止場から、船に乗ろうとしていた。
…………行く当てなどない。
どの国に向う為の船に乗り込むのか、何の為にそうするのか……と言った、所謂『目的』は、彼等にはない。
行く先など何処でも良い。
唯、暫しの間放浪した、この気候穏やかな国を離れて、別の場所へ行ければ、彼等はそれで良かった。
適当な船に潜り込んで、適当な国に向って、又、何時終わるとも知れぬ、旅が続けられれば。
────彼等、カナタとセツナの二人には、二つずつ、肩書きがある。
カナタの持つ肩書きの一つは、トラン共和国と呼ばれる国の、建国の英雄。そしてもう一つは、ソウルイーターと呼ばれる、生と死を司る、二十七の真の紋章の持ち主。
セツナの持つ肩書きの一つは、デュナンと呼ばれる国の、建国の英雄。そしてもう一つは、二十七の真の紋章の一つ、『始まり』の持ち主。
……それが、もう十数年もすれば、カナタが戦い抜いたトラン解放戦争、セツナが戦い抜いたデュナン統一戦争、それぞれが終結して百年は経つだろう今日になっても、二人が背負い続ける肩書きだ。
紋章主である故に、見た目は、十七、八の少年であるカナタも、やはり見た目は、十四、五であるセツナも、約百年、この世界で生きている。
……だから彼等に、『明確な行き先』はない。
それぞれが、それぞれ見詰める先、そこに辿り着くまで、彼等に『明確な行き先』はなく、気の向くまま、足の向くまま、漂うだけの旅を続けるのみだ。
──否、実の処を語ってしまえば。
本当に本当の、『明確な行き先』を、彼等とて、持っていない訳ではない。
何時終わるかも判らない、ひょっとしたら、永劫続いてしまうかも判らない『旅路』を、それならそれでいい、と、只、明るく楽しく流れて行く程は、彼等も、風来坊には出来ていない。
但、彼等が何時か、行き着くかも知れない、『明確な行き先』を目指す為には、とてもとても、気が遠くなる程に、永い永い時間が掛かる筈だから。
そこを目指す為に、彼等は先ず、その手の中に、『得なくてはならぬ』ものがあり。
その為に、こうして、世界を漂い続けている。
この『漂い』の先にあるモノが、神の情けか、悪魔の誘惑か、そんなことは、解らない……──いいや、解らない、振りをして。
彼等は、世界を。