今日は随分と、風が騒がしいと。

長年住まって来た、余り広いとは言えない、静かで豊かな自然に取り囲まれていることだけが取り柄と言えるだろう塔の屋上で、彼はその、『騒がしい風』に吹かれながら、遠くを見遣る目をした。

尤も、そうしてみた所で、高台に佇む彼の目には、行く風と、塔を取り囲む小さな森や、やはり小さな草原の緑や、その向こう側に広がる、トラン湖を水源とする河の流れしか、映りはしないのだけれども。

「どうして、今日はこんなに…………」

ひたすらにまなこを細めて、彼、ルックは、眼下の景色のその向こう側に広がる何かを、見遣ろうとした。

そうしてみれば、どういう訳か、ふと。

脳裏に、約八十年程前、一時期を共に過ごした二人の『英雄』の姿が浮かび、翻って。

「あのお馬鹿達が、又何処かで、馬鹿馬鹿しい騒ぎでも起こしてるんじゃないだろうね……」

瞼の裏側でのみ翻った幻影に、記憶を呼び覚まされてルックは、酷く複雑そうな面を湛えた。

──懐かしい、懐かしい、あの頃。

もう、遠くなってしまった、あの頃。

トランの地で解放戦争に、デュナンの地で統一戦争に。

嫌だ嫌だと、強く訴えてみたのに、その訴えに耳を貸してくれなかった師に命ぜられるまま、ルックは手を貸しており。

渋々ながら参加することになったその二つの戦いで、それぞれ軍を率いていた『少年』──トラン解放戦争時に、カナタ・マクドールと、デュナン統一戦争時に、セツナと。

ルックはえにしを持った。

それぞれの戦争を戦い抜いた二人の英雄は、只の英雄ではなく、二十七の真の紋章を宿していたから。

ルックが、この世に産まれ落ちた時より、真なる風の紋章を宿していたのと同じように、カナタは魂喰らいを、セツナは始まりの片割れ、輝く盾を、宿していたから。

若輩としか言えぬ齢で軍の長となって、紋章を宿しても尚、前へと進むこと止めない彼等への反発も、盛大な嫌味を言い募ってやりたい気持ちも、多大にルックの中にはあって、実際それをルックは態度として示して、でも。

カナタもセツナも、彼と積極的に関わろうとしてみせたし、戦友と言うよりは、悪友、との立場を貫いてみせた。

故に、そんな彼等に絆された訳ではないけれど、何時しかルックも、彼等が仕掛けて来る『じゃれ合い』に、多少は付き合う程度には、彼等の傍近くに在ったが。

心の奥底で、彼等二人に対し、「理解出来ない」と呟くことを、彼は止められなかった。

────産まれ落ちた瞬間から、その身に在った真の紋章、それはルックにとって、禍々しい呪物以外の、何物でもなかった。

それは呪うべき物で、呪うべき物を宿した己をも呪う、引き金にしかならなかった。

人知を超えた、強大な力と不老、それを、宿した者に齎す紋章。

時の権力者などは、求めて止まない代物。

なのに紋章は、ルックに、何一つとして齎そうとはしなかった。

無論、理通り、魔の力と不老、それを紋章は、彼に与えはしたけれど。

安らかな眠りも、穏やかな日々も、真なる風はルックには与えず、何時の日か来たる、この世界の終わりや、静かに滅び行く世界の幻影、紋章の中に潜む、かつて真なる風を宿していた者達が生涯吐き続けた怨嗟の記憶、それのみを、見せ付け、囁き続けて来た。

……そんな運命の中にあったルックには、何処にも、救いなど有り得なかった。

紋章を宿した己の中にも、その『外』にも。世界、にも。

誰の中にも。

だから、彼に出来たのは、神に等しいと言われる紋章──そう、即ち『神』と、『神に愛された』己と、何時か費える世界の幻影を、ひたすらに呪うことと。

紋章の楔を深々と打ち込まれ、『進化』することすら叶えられず、幾度も幾度も繰り返される、滅びの道を辿るだけの人の世を、己と、『己を愛した神の一つ』の滅びを以て塗り替えよう、との『希望』を見ること、それだけだった。

けれど、『運命』は、変わらなくて。

グラスランドと呼ばれた大地を巻き込んでまでも果たそうとした『希望』は費えて。

『己を愛した神の一つ』に彼は、『希望』が費えた瞬間、やっと、己の中にも在るのだと信じられた魂さえ、砕かれ掛けたけれど、トランで、そしてデュナンで、縁を持った『悪友』達は、ルックが『全て』を残して逝くことを、許してはくれなかった。

それを許してはくれなかった代わりに、何時か、辿り着くべき場所へ共に向おう、と。

そして、『夢』を見せる、と。

そう約束してくれたから。

『全て』を手放して、逝き掛けたあの日より、約七十年の歳月が過ぎてもルックは、確かに世界の中に在る。

『己を愛した神の一つ』が司る、風を感じながら。

その風の向こうに、懐かしい二人の面影を、微かに感じ取りながら。

「今頃、何処で何をしてるんだろうね、あの馬鹿達は」

────つらつらと、過去を振り返り。

脳裏で、何処にいるとも判らない、面影を追って。

眼下の景色を眺めることは止めず、ルックはぽつりと呟いた。

そうして彼は、体の一部であるかのように携え続けているロッドを振り翳して、転移魔法を呼び起こすと、招き寄せた光の輪の中に、身を投じた。

投じた光は、ふわりと、漂う帯のようにルックを包んで、彼が住まう塔──トラン共和国の片隅にある、魔術師の塔と呼ばれているそこの、裏庭に当たる場所へと彼を運んだ。

……裏庭、と言ってもそこは、所謂庭ではなく、魔術師の塔が建つ島で最も広い、緑に覆われた『空き地』で、季節が巡ってくれば、その方々で、折々の花が咲き乱れるから、便宜上、庭、とされているだけだが。

それでもルックの中では、その場所は裏庭であって。

大切な家族が、次の世を迎えるまで眠り続ける場所でもあった。

「…………もう、何年目だっけ。君が逝ってしまって」

向った、そんな『裏庭』の片隅の、大切な家族の墓標の前に進み、佇み。

灰色の墓石を見下ろして、ぽつり、ルックは呟く。

物言わぬ墓標より、返される言葉はなかったけれど、呟きをくれた後、ルックは確かに微笑んだ。

微笑んで、徐に、しゃがみ込んで。

直ぐそこに咲いていた、白い野辺の花を数輪摘み、眠る家族──セラという名を持っていた女性──へと捧げて。

「ねえ、セラ。あの二人、元気にしてると思う? ……まあ、あの二人のことだから、殺したって死なないんだろうけど。…………一寸、ね。気になったんだよ、元気かな、って。自分でも、らしくないとは思うけど、今日は随分と、風が騒がしいから。どうしたんだろうな、とか。厄介事に巻き込まれてなきゃいいけど、とか。気になって、さ」

セラへと語り掛けながら、花を添え、立ち上がって彼は。

ふい……っと、晴天の空を一人見上げた。

世界の何処かにはいるだろうあの二人の、天頂に今ある空も、こんな風に、晴れ渡っているのだろうか、そう思いながら。