歩を進めながら、視界の端で写し取った空は、晴天の色だった。
が、廊下を覆うガラス窓を隔てて見遣ったそれは、遠い世界の色のようで、現実味がなかった。
絵に描いたような色だった。
だから、空をちらりと眺め、そんなことを思った彼は、首を傾げ掛け。
ふと、歩んでいた廊下の、大理石を見下ろし。
現実味がないのは己か、と、薄い、自嘲らしき笑みを頬に刷いた。
──空の色は青。
晴天の青。
恐らくそこには、温度があるのだろう。
けれど、それを写し取る己の瞳も、青色を弾く大理石の床も、温度を伴っているとは思えず。
自分と、この神殿の方が、現実ではないように思え。
思わず彼は、立ち止まってしまった。
「どうかなされましたか」
真っ直ぐ前を向いて、カツリと足音を立てつつ歩んでいた彼が、急に立ち止まってしまったから。
彼の数歩後ろに付き従っていた武官が、訝し気に声を掛けた。
「ああ、何でもない。……一寸」
「…………そうですか? なら、参りましょう、ササライ様」
「判っているよ」
何事かと、気遣わし気に掛けられた声に、視界の端に空が映った所為で、現実の境目が良く判らなくなって立ち止まった、とは言えず。
ササライと呼ばれた彼は、適当に武官を誤摩化してより、又、歩みを進めた。
────物心付いた時から、彼はこの、円の神殿、と呼ばれている場所に住まっていて、どうして己がそこにいるのか、毛筋程の疑問も抱いたことはなくて、貴方には、二十七の真の紋章の一つ、真なる土の紋章が宿っているから、そうならなくてはいけないのですよと、周囲の者達に言われるまま、ハルモニア神聖国の神官将と人々に呼ばれる地位に就いて、長年を過ごして来た。
自分という存在がこの世界には在る、とのそれに彼が気付いて、数年と経たぬ内に、ぼんやり、とでしかなかったけれども、それでも、「自分は他の者と、何処か何かが違う」程度のことは、彼とて感じることはあって。
『子供時代』の記憶が薄弱過ぎるのも、他の者と違うように思えて仕方がないのも、全て、真の紋章を宿している所為だ、と言われてしまえば、そうなのかなと、納得するより他なくて、けれど。
彼の人生が、三十年程の年月を『喰い終えた』頃、グラスランドの地にて始まった英雄戦争の折、彼は、己がどうやってこの世に産まれて来たのかを、彼を「兄さん」と呼んだ、彼に似過ぎている面を持った、真なる風の紋章の持ち主に、それを、無理矢理教えられた。
……でも、結局。
彼、ササライは、真なる風の紋章の持ち主──ルックに教えられたことの全てを、すんなりと飲み込むことは出来なくて、又、飲み込みたくもなくて、英雄戦争が終戦を迎えて直ぐ、手を貸す為に赴いていた、グラスランドのビュッテヒュッケ城から、己の生涯に一石を投じる出来事など何一つとしてなかったような顔をしてハルモニアへと戻り、それまで通り、神官将としての日々を送り始めた。
が、それより過ぎること、約七十年。
己に仕える者達が、入れ替わり立ち代わり、としていく中、ああ、自分は不老なんだ、との、それまでの己にとっては『当たり前』過ぎたが故に、噛み締めてみたことすらなかった認識が、嫌気が差す程彼の中で暴れ始めて。
己は不老で、物心付く前から真の紋章の一つを宿していて、との強い自覚は、あの頃、ルックに教えられたことを、記憶の片隅から呼び起こすに充分過ぎて。
ササライは時折。
どうして自分はここに、と。
そんなことを思い悩むようになった。
──どうして自分は、この世に生を受けたのだろう。
あの彼が言っていたように、自分も彼同様、只の紋章の容れ物でしかなかったんだろうか。
そして今も尚、自分は只の、紋章の容れ物なんだろうか。
でも、ならば何故。
己には、神官将との道が与えられて、あの彼には、それが与えられることはなかったんだろう。
自分と彼が、双子のように、紋章の容れ物として産み落とされたと言うなら、自分と彼を隔てたものは、一体何だと言うのだろう。
判らない、何も彼も。…………と。
そんな風に彼は悩むようになって、けれどその問いに対する答えは、何処にも見付けられなくて。
最近では、現実の境目さえ、あやふやになる瞬間すら、彼にはあった。
悩んでみた処で。
現実の境目さえ、あやふやにしてみた処で。
答えが見付けられぬ以上、何も変わりはしなくて、彼は唯。
……最近では。
どうして自分は、と、時折思い悩むように。
やはり、時折。
果たして自分は、ここに居続けてもいいのだろうか、と。
そのようなことを、思い悩むようにもなって。
自分は、ここではなくて。
何処でも良いから。
地の果てでも、空の彼方でも。
何処でも、良いから。
ここではない、現実の世界へ行くべきなのではないのだろうか、と。
そう考えるようになった。
────しかし。
ここではない、何処か遠くの、現実の世界へ。
……それを、今の彼には実現すること叶わぬだろうし。
又、実現する気もないから。
彼は未だ当分の間、現実の境目をあやふやにしたまま、温度があるのかないのかも判らぬ、総大理石造りの神殿の中に住まい続け。
空を見上げるのだろう。
今日のような、晴天の空を。