記憶が正しければ、確か。

『炎の英雄』、そう呼ばれていた頃の彼は、若かった所為もあって、余り酒精に強くはなく、自分を取り囲む大人達に負けたくない、とでも思っていたのか、それとも、背伸びをしてみたくて仕方がない年頃だったのか、無理に酒を嚥下しては、玉砕すること度々だったのに。

今、晴天の空を、何の気無しに見上げて、南国の特産の、透明な強い酒で満たされたグラスを煽る彼は、随分けろりとしている、と。

眼前の彼、ヒューゴが、身も心も少年だった遠い日を思い出して、クリスは微かに笑った。

「何笑ってるの? クリスさん。何かおかしい?」

「いいえ、そうではなくて」

忍び笑い以外の何物でもない、本当に細やかな笑い声を、それでも拾ったらしいヒューゴは、酒を飲む手を止めて、きょとんとクリスを見遣ったが。

おかしいから笑ったのではないと、クリスは緩く首を振った。

この波止場の乗船受付で偶然擦れ違って、積もる話をしようと、一軒の露店に腰を落ち着けるや否や、当たり前のように酒を注文し、当たり前のように飲み出したヒューゴは、外見こそ昔通りだけれど、確かに、八十数年の歳月を生きて来た、『男性』なのだ、そう感じられ。

だからクリスは、笑んだ。

ヒューゴと再会する直前、あんなに『可愛らしい』酒を目の前にしただけで、昼日中から……と罪悪感に駆られたのに、それより半刻も経っていない今、ヒューゴのそれと同じ酒を注文し、飲み干そうとしている己に、どういう訳か罪悪感を抱かない、自身へも。

「じゃあ、何?」

「昔は、そんなに強くなかったと思ったのに。何時の間にヒューゴは、お酒が平気になったのかと思って」

「……ああ。これだけ生きてれば、多少は強くもなるよ。家系もあるんじゃないかな。クリスさんも憶えてると思うけど、母さん、息子の俺でさえ、恐ろしいって言いたくなる程、酒が強かったし。……歳を取ってからは、昔程じゃなくなって、俺より先に寝ちゃうこともあったけどね」

「…………ルシア殿が? あの、ルシアが?」

「寄る年波には勝てないって、よくぼやいてたよ」

笑みを零した理由を知りたがったヒューゴへ、クリスが答えを伝えてやれば、……ああ、とヒューゴは頷きを返して、年月、年月、と。

掴んでいたグラスの中身を、一息に空にした。

「そう…………」

「うん。…………まあ、今となってはそれも、想い出って奴かな。──止めようか、この話。…………処でさ────

酒を飲み干しながら、軽い調子で、もう故人となってしまった母のことを語ったは良かったが。

聞き手に廻っていたクリスも、それを語った己自身も、その話の所為で何処となく、複雑な気分に捕われたが為、曖昧に笑んで、ヒューゴは話を変え。

強引に、ではあったけれど、変えられた雰囲気と話にクリスも乗った。

けれど、どうしても彼等の口から溢れる話は、あの頃のこと、そして、逝ってしまった人達のことに辿り着き、重いような、そうでないような、そんな雰囲気の中、ほんの少しの苦笑を浮かべ合い。

諦めたように、彼等二人は覚悟を決めて。

「………ササライさん、元気かなあ」

「多分。ハルモニアの神殿絡みの話を、余り耳にすることはなかったけれど、彼のことだから、元気にしていると思うわ」

数多の人々が、自分達を置いて逝ってしまったこの世界でも、己達同様、変わらずにいるだろう人のことを話し始めた。

「そうだよね。ササライさんだもんね」

「ええ。彼だから」

「ゲドさんは、どうしてるかな」

「そうねえ……。彼は多分、相変わらずだと思う……と言うか……、そう思いたい、と言うか……。……色々、ある人みたいだから」

そうして、ヒューゴとクリスは。

あの頃共に日々を過ごした、今尚大切な人の一人である『彼』のことへ、その想い馳せた。

今、自分達がこうしている波止場の片隅に、その、大切な人の一人である『彼』も又、存在するとは知らずに。

船から降りた時、通りすがりに見掛けた二人連れらしい彼等が、もしも、ヒューゴとクリスだったら、などと。

らしくもない『感傷』を思った所為で、ゲドはふと。

離れようとしている波止場の入口で、海の方角を振り返った。

千年一日の如く、あの頃同様、傭兵の仕事で身を立てているから、仕事の口のある場所──即ち、戦いの起こる場所へと流れて行くのが己の常で、流れるだけの日々の中、『擦れ違う』者達は数多過ぎて。

誰と、何と、肩越しに触れても、早々気になど留めぬのに。

今日の自分は随分と、様々なことに後ろ髪を引かれる気分だ……、と。

もう二度と訪れぬかも知れない、もしかしたら再び訪れるかも知れない、去り行くだけの波止場を眺めてゲドは、苦笑を浮かべる。

あの頃は。

そして、あの頃の出来事と、あの頃の人々は。

随分深く、己の中に根付いているらしいと、今更ながらに思い知らされた気分だった。

……あの頃は、もう遠い。

過ぎる程に。

愛しくて憎らしくて、懐かしくて物悲しい、あの親友と過ごした遠い日々が、二度と戻らぬように。

あの頃も又、二度とは戻らない。

けれど、想い出は確かに胸の中にあって。

浸れる感傷も又、胸の中にあって。

「又、何時か。縁があれば」

──ゲドは、振り返ってしまった波止場の風景を見渡しながら、何時の日にか、あの二人と再会することもあるかも知れぬと。

後ろ髪引かれがちな、その日の気分を押し殺し、歩き出した。