始まりのキスは。

この五十年間、彼等が毎日交わすだけは交わして来た、鳥の啄みのような、可愛らしくて呆気無くて、情熱の欠片もない、本当に細やかなそれだった。

けれど、二度三度と啄みが繰り返される内に、何時しかそれは、少なくともセツナは未経験の、艶かしくて、深い呼吸よりも長くて、情熱だけに満たされた、恋人同士の接吻くちづけに変わった。

そんなキスを、セツナはこれまで知らなかったから。

カナタの唇が濡れているのか、己の唇が濡れているのか、判らなくなってしまった熱い熱いそれが終わって、艶やかに湿るカナタのそこが、頤や、耳朶や、首筋へと降りて来ても、ぽうっ……と、この柔らかみは何だろう、と考えていた。

武道家であるのに、節くれた様子のないカナタの指に、するりと衣装を剥がれても、背がしなる程に掻きいだかれても、熱いのに、暖かい、と。

被い被さる温もりの、温度だけを追って。

「カナタ、さん…………」

「……ん……?」

「カナタさん……」

──何? セツナ……」

「……カナタさん…………」

大きな薄茶の瞳を見開き、カナタの名だけを繰り返し呼び、やがて彼は、春の日溜まりのような頬笑みを、己も知らず湛えた。

「…………セツナ」

服を全て脱がされ、生まれたままの姿にされても、カナタが裸体を晒しても、茫洋としたままのセツナへ、カナタは囁く。

「閉じておいで……」

そうしてカナタは、見開かれたままのセツナの瞳にキスをして、瞼下ろさせた。

「……愛してます。ホントです……。誰よりも、カナタさんのこと……。──ずっと、傍にいますね……? だから、傍にいて下さいね……? 約束ですよ……? カナタさん……」

────未だ、愛欲の営みは始まったばかりなのに。

促しに従い閉ざした瞳より、ぽろぽろと涙を伝わせてセツナは、ベッドの上に投げ出されていた腕を、カナタへと伸ばした。

「……信じて、いいよ?」

縋る躰を抱き返し、よしよしと、宥めるように言えば、言付をやぶって開かれた、泣き濡れる薄茶の瞳と目が合って。

慈愛の笑みを、カナタは浮かべた。

「絶対ですよ? 約束ですよ? 何処にも……何処にも行かないで下さいね……? 傍にいますから……傍に、いて下さい……っ……」

……何処にも行かないで。

唯、傍にいて。

それだけしか、望まないから。

カナタの、漆黒の瞳を覗き込み、セツナは言う。

「君を置いて、僕が何処に行くの?」

だからカナタは、ポンポン、とセツナの背を軽く叩き。

もう一度、小さな躰を組み敷き直し。

優しい、という言葉を、全身で表現したら。

多分、こんな風になるんだろうな……と、浮かされるような熱の中で、セツナはぼんやり思った。

彼の躰が、未だに少年であることを考えれば、異常、と言う者もいるのかも知れないが、誰の躰も知らない彼は、生理的な欲求を、自ら晴らす経験さえ乏しくて、だから、本当のことなんて、判りはしなかったけれど。

己が肌に伸ばされる、カナタの指先も舌も唇も、何も彼も、優しいことこの上ないそれだと、セツナには感じられた。

胸許を、腰を、背を目指して降りて来るカナタの蠢きは、本当に熱くて、心地よくて、紛うことなく、愛欲に満たされたそれなのに。

胸の奥が、切なさで苦しくなる程、全てが優しく。

甘い疼きは全身を走り続けているのに、ともすれば、眠りの淵に引き摺り込まれる時のような、微睡みに近い穏やかさをも、彼は覚えた。

だがそれも、カナタの指が、楚々と立ち上がったセツナの中心に絡み付くまでの話で。

その場所で、蠢きが湧いた途端、ぴくん、と彼の躰は跳ねて、薄く開かれた口許から、声が洩れた。

「ん………。あ……」

こんな、女の子みたいな高い声を、自分も出すんだ、と、カナタの愛撫を受けながら、セツナは思う。

「可愛いんだけどな……」

到底、己の物とは思えぬ声が、何処となく嫌だと感じたセツナの想いを、カナタは察したのだろう。

可愛いのに、と、ぼそり洩らしながら、彼はセツナにキスを落として舌を絡めて。

『セツナ自身』を絡め取った指の動きを、少しばかり激しくした。

カナタに煽られるままセツナは、躰の奥底より、何かが這い上がってくるような感覚を覚え、叫びを放ち掛け、が、先程の、女の子のような自分の声なんか聴きたくない、と飲み込み掛け。

けれど、ああ、だからカナタさんはキスを……と、不意にそんなことに思い当たって、くすぐったさを覚えながら、絡んだカナタの舌先の向こうに、嬌声を注いだ。

ぱっ……と、呆気無く、どうしてそんなことになったのか良く理解出来ぬままに、カナタの手の中に熱を散らしてしまうまで。

「気持ち良かった?」

身を強張らせ、熱を放ったら、接吻は遠くなり。

はあ……と息を付くや否や、意地の悪い台詞を囁かれ、真っ赤になってセツナは、消え入りそうに俯く。

「……そーゆーこと……聴きますか…………」

「仕方ないじゃない。可愛い相手は苛めるに限るよ」

クスクスと笑い出した相手を、むうっとセツナが睨め付ければ、苛めっ子の心理、とカナタは軽く舌を出し。

しかし直ぐさま真顔になって。

「これを聴くのは、卑怯だって、良く判っているんだけどね。引き返せなくなる前に、もう一度だけ君に尋ねるよ。……恐くない? セツナ。恐いと思うなら、逃げても構わない。無理強いだけはね、したくないから。でも君が逃げ出さないなら、僕は止まらないよ? 僕は君を、『征服』してしまいたいから」

この先に進んでしまったら最後、引き返すことは叶わないよと、彼は恋人に宣告した。

「…………えと……。捕まってても、いいですか……」

最後の選択を自らに委ねられ、是でもなく非でもなく、セツナはカナタの首に両腕を廻し、こうしている、と言った。

「……君の、望むままに」

だからカナタは、セツナの髪を、一度だけ柔らかく掻き上げた後、徐にその躰を開き。

滑りが乗っているらしい指先が、己の奥底へと入り込んで来て、ビクリとセツナは躰を震わせた。

痛みは感じなかったけれど、最奥への入り口をこじ開け挿し入れられる感触は、大き過ぎる違和感を生んで、彼の身を捩らせる。

しかし、逃げることはせずに彼は、カナタに縋り付かせた腕に、ギュっと力を込めた。

そうしたら、優しいキスが幾つも降って来て、消えて行かない、不快とも言える違和感と、キスの心地よさという、相反する物に己を満たされ、どちらの感覚に、より倣えばいいのかセツナには判らなくなって、ほろほろと泣くことで彼は、自分を取り戻そうとした。

が、入り口を押し広げようとしているカナタの指の数は増えて、何時もの自分は帰って来なくて、セツナは、涙越しにカナタを見詰めた。

──見詰めてみてもカナタは、優しく頬笑むだけで。

もう、上がる嬌声を受け止めてくれる接吻も降りては来なくて。

その正体が何なのか、セツナには良く判らない、カナタの指に乗った滑りが、湿ったような、絡むような、厭らしいとだけはセツナにも言える音を沸き上がらせていて。

彼に叶ったのは、カナタにしがみ付いたまま、身を竦ませることだけだった。

…………やがて。

己を満たしていた違和感が、不意に消えて、ほ……っとセツナは吐息を吐き出した。

次に待ち受けている衝撃のことなど、彼には知る由もないから、瞼を閉じて、肩の力を抜いて、セツナはカナタの腕の中で、無防備となる。

────っ! ……っ……あっ………」

弛緩していた躰に、叫びにすらならない痛みが走って、咄嗟にセツナは、カナタの背に、思い切り爪を立てた。

「……つっ……。──セツナ……? セツナ、力抜いて?」

血が滲む程爪が食い込んだ所為で、若干その柳眉を顰め、カナタがセツナを宥めた。

「…………そ……な……と……言わ……た……って………っっ……」

しかし、力を抜けなどと諭された処で、未知の痛みに悶えているセツナに、それを叶えられる筈もなく。

「いた……い……。カナ…タ……さ……。痛…………っ……」

苦しみを訴えても、嫌だとも、止めてくれとも言わぬセツナを、愛おしそうに……けれど儚く眺め。

「……愛しているよ」

慰めの代わりにカナタは、免罪符のように、愛の言葉を囁いて、セツナを導き始めた。