──揺籃の師、それは。
『揺り籠』に揺られる程幼かった頃、某かを教え与えてくれた人、という意味だ。
だから、シエラが吐き捨てた言葉をそのまま受け取れば。
カナタにとってそれは恐らく、彼の従者に当たる。
帝国の将軍という要職に就いていた、彼の父の代わりに。
慈しみ、愛情を注ぎ、沢山のことを教えてくれた、グレミオという彼が、それに当たるのだろう。
……が。
カナタの実父も又、確かにカナタにとって、揺籃の師であることには変わりない。
強くて、厳しくて、とても優しかった父の背中を見詰めてカナタは育ち、生涯を懸けても追い抜くこと叶わないのではないか、とすら思ったその背中より、彼は山程のことを学んだのだから。
そして、又、彼の親友であるテッドも。
カナタには、揺籃の師、という言葉に、相応しい存在なのだろう。
大切な、俺の親友、と微笑み掛けてくれていたテッドよりカナタは、紛うことなく『世界』を学んだ。
少年が、背伸びをし始める、『揺籃期』に。
カナタは常に、テッドと共にあった。
…………最後の一人、オデッサも。
カナタにとっての揺籃の師、と、言えぬこともない。
揺籃、という単語を、発展の始まり、という意味合いで捕らえるならば、貴族のお坊っちゃんでしかなかったあの頃のカナタに、指針、という物を示してくれた存在、オデッサ・シルバーバーグとて、その意味では明らかに、『揺籃の師』だ。
……………………さて、では。
御主の揺籃の師が、と。
あの時吐き捨てたシエラは一体、誰のことを指し示して、揺籃の師と例えたのだろう。
──それを、カナタは。
シエラの台詞を、記憶の底より拾い上げたその日から、延々、考え続けていたけれど。
やがて彼は、結論を出した。
恐らく、シエラは。
この四人全てを指し示して、揺籃の師、と言ったのだろう……と。
故に、カナタは。
シエラの台詞の意味する処を、悟ってしまったその日より、益々、鏡面を覗くこと叶わなくなり。
トラン共和国に程近い、辺境の町の宿屋にて。
古ぼけた、映りも余り良くない、小振りの鏡を覗き込んでいたその真夜中。
とうとう、拳を振り上げて。
懐かしい人々の影映り込む、鏡を。
甲高い破壊音を放たせながら、叩き割った。
強く握った拳を、渾身の力で振り降ろせば。
呆気無く鏡は割れ飛んで、『影達』を四散させつつ、浴室の床に散った。
振り降ろされた拳は剥き出しの素手だったから、細かく砕かれた破片が無数に刺さって、指先も、掌も、魂喰らいの宿るそこも、満遍なく傷付け、血を流させた。
けれどカナタは、傷付いた拳の痛みなど、欠片程も感じず。
唯、その胸中を覆う痛みに、顔を歪めていた。
…………哀しんでいるような、嘆いているような、何かを嗜めようとしている風な。
一様に、物言いたげな表情を拵える、懐かしい人々の影など、カナタはこれっぽっちも見ていたくなどなかった。
いたたまれなかった。
その場より、逃げ出したくなる程に。
無言のまま在る彼等より、責め立てられている気がして、仕方なかった。
お前は一体、何をしているのか、と。
お前の傍らに寄り添い、永劫の時をゆこうとしている小柄な少年に、見えない涙を流させてまで、一体何をしようとしている、と。
そう、責め立てられて、いるようで…………。
鏡面の向こう側の世界より、テッドや、グレミオや、父や、オデッサが、それぞれ注いで来る視線に、貫かれそうだった。
──認める訳には、ゆかぬと言うのに。
彼等の正体が、真実、幽体であれ、幻影であれ。
確かに己には見える彼等より注がれる視線が、痛い、だなどと。
認めてしまう訳にはゆかないと言うのに。
認めざるを、得なくなりそうで。
堪らなく、カナタは嫌だった。
…………失いたくない。
失ってしまう訳にはいかない。
セツナ、という灯火だけは。
セツナ、というタカラモノだけは。
だから、認める訳にはいかない。
認めたら最後、どれ程の『高み』に己が立っていようとも。
魂喰らいは、牙を剥いてしまうかも知れない。
その歯牙に、セツナを掛けるかも知れない。
……だから。
認めてしまう訳にはいかない。
百年以上も昔に失ってしまった、大切な人々に、今こうして責められ、詰られているとしか、感ぜられぬ程。
……いいや、確かに、百年の時を越えて、罵声を浴びせられても甘んじられる程。
セツナのことを、真実、愛している、だなんて。
認めてしまう訳には。