何処か、虚ろめいた、光宿らぬ瞳で、ポタポタと、紅が滴り落ちる床を、感慨もなく眺めていたら。

「カナタさん? どうかしまし……──────何やってんですかっ!」

どうやら、鏡の割れた音を聞き付け目覚めたらしいセツナが、右の目許を擦り擦り浴室の扉を開け放ち、そこに広がる光景に、瞬く間に目を剥いて。

「ああああ、もうーーーーーっ! そんなことするくらいなら、鏡なんて覗いちゃ駄目ですーーーっ!」

真夜中だというのに彼は、大声をあげ、寝間着の裾を乱しながら、立ち尽くすカナタの傍へと駆け寄ると、強引に、傍らの台の上の盥へと、掴んだカナタの右手を突っ込んだ。

「全くもうっ。……何が見えてるんだか、僕は知りませんけどっっ。見たくないなら見なきゃいいんですよっ」

水指しの水を、ばしゃりと勢い良く掛けて、細かなガラスの破片を捨てながら、ぶつぶつと、セツナは言い募る。

「痛くっても、僕の所為じゃありませんからねっっ。カナタさんが悪いんですからねっっ」

多少の我慢はしろ、と放ちながらもその実、一つ一つ丁寧に、カナタの右手に刺さった破片を取り除きながら。

「どうしちゃったんですか、カナタさん」

もう、欠片一つもその手には残っていないことを確かめ、ちろっと、カナタの顔を上目遣いで覗き込んだ後、セツナは両手で、傷付いた右手を包み込んだ。

「…………だいじょぶですよ。『痛く』なんてないです。こんなの、直ぐ、治っちゃいますから……。ね?」

──そうして、彼は。

口の中で何かを低く呟いて、ポウ……っと、始まりの紋章を輝かせ始めた。

……明かりは確かに、灯されてはいるが。

何処か薄暗い真夜中の浴室で、微かに発動させただけの紋章は、それでも、眩過ぎるとカナタには感ぜられる程の光を帯びて。

セツナが捲し立てている間中、黙し、ぼんやりと少年を見詰めているだけだったカナタも、僅か瞳を細めた。

「……セツナ……。あのね…………────

始まりの紋章が放つ光を、写し取ったかのように。

やっと、虚ろ気味だった瞳に何時も通りの色を戻して、傷を癒してくれるセツナへ、その時、カナタは何かを言い掛けた。

……が。

傷付き血を流す、という代償を負って、鏡面を打ち砕いたにも拘らず。

向き合ったセツナの小さな肩の、その向こう側──開かれたままの扉のあちら側に広がる、明かりが落とされた室内を窺える空間に、追い払った筈の、『懐かしい幻影』が姿見せて。

ぼう……っと佇み。

物も言わず。

悲しげな眼差し、見据えるような眼差し、哀れむような眼差し、戸惑うような眼差し。

……そんな、四対の視線を送って来た。

「……っ…………」

様々な色を乗せる、その眼差しの奥に、皆一様に、咎めの気配を漂わせ。

影達がじっと、見詰めて来たから。

カナタは、セツナへと言い掛けていた言葉を飲み込み、きつくきつく、目を瞑った。

──瞼さえ、閉ざしてしまえば。

幻影も、幽体も、掻き消えてなくなる、そう思った。

気配を帯びぬ、物言わぬ影など、見ないでおけばそれで済む、そうも思った。

なのに、瞼閉ざしても。

いまだ、己が右手を包み込み輝く、始まりの紋章の淡き光が、瞼の裏側に忍び込み、その暗闇を照らし出し、光の中に、残像は浮かんで。

物言わぬ筈だった、残像の影達は徐に、唇を動かし始めた。

カナタ…………と。

彼の名を呼ぶ形に。

故に今度は。

カナタの耳に、幻聴が木霊した。

──幻聴は、彼の名を象っていた。

カナタ、カナタ……と。

始めは、テッドの声で。

次は、父、テオの声で。

三度目の木霊は、オデッサの声で。

そして最後に、坊ちゃん……と。

グレミオの声で。

明瞭に響く幻聴は、彼の名前を呼び続けた。

……………その始まりは、細やかな響きだったのに。

何時しか、凄まじいと言える程の、耳鳴りと化し。

唯ひたすらに、カナタの名だけを、幻聴は。

「…………カナタさん?」

だから、強く瞼閉ざしたカナタは、だらんとぶら下げていた左手を持ち上げ、耳さえも塞いでしまおうとしたけれど。

彼の様子が一層おかしくなったことに気付いたセツナが、『鮮やか』、とも言える程の声音で、カナタの名を呼んだから。

セツナの声に、祓われたかのように幻聴は消え。

そっと瞳を開いてみても、もう何処にも、影の名残りさえなく。

あからさまにカナタは、ほっとしたような表情を浮かべ、息を飲み込み喉を鳴らした。

「具合悪いんですか? 顔色悪いですよ? 寝ましょっか」

ふん……? と、そんな彼を不思議そうに、セツナは眺めていたけれど、やがて渋い顔をして、具合が悪い時は寝るに限ると、掴んだままだったカナタの右手を引き、抜け出して来たベッドに向かい、歩き出す。

「………………ね、セツナ」

幼子のように大人しく、セツナに腕を引かれるまま、カナタも又、歩き出し。

けれど彼は。

未だ多少は、セツナの温もりが残っているだろう、寝乱れたベッドを前にして、ぴたりと立ち止まり、『タカラモノ』の名を呼ぶと。

「何ですか?」

振り返ったセツナを、泣き笑いのような面で見詰め。

「…………もう……………『終わり』にしようか…………?」

────ぽつり、と。

彼は呟いた。

もう、何も彼も、『終わり』にしよう、と。