「笑っていいんですかね、悪いんですかね……」

喉の奥から洩らされるような、低い笑いを聞き付け。

困惑したように、セツナは言った。

「こんなこと、笑い事だよ。……そうだろう? 僕は『今も尚』、何も彼もがどうでもいい、そんな『高み』にいるのだからね。──でもねえ。セツナが言う通り、どんなに、『びみょー』、なバランスの上に立っていても、現実は現実だから。死んでしまった人はもう、還っては来ないから。…………ま、色々とね。僕にも僕なりに、思うこと、という奴があって。クロン寺を後にして僕は、僕の中にもう、ナニモノも入れぬようにしよう、そう決めた」

さて、何と返したらよいやら……、そんな様子を窺わせたセツナにカナタは微笑んでみせ。

僕は尚、この『高み』にいるのだと告げ。

「大切な存在もなく、憎むべき存在もなく、全てのモノが、等しく僕の瞳に映れば、そこに、『愛すべき』という言葉は生まれない。……そうすれば。僕にとって、全ては等しく在り、全ては虚しく在り、全ては等しい価値を持って、全ては等しく、無価値になる。……何も彼も、僕にとって『どうでもいいこと』、と昇華すること叶えば。魂喰らいを眠らせたまま、僕は生き続けることが出来る……とね。そう思って。……僕は、そう決めたんだよ、セツナ」

セツナの髪を撫で続けながら彼は、穏やかに、『吐露』した。

「…………カナタさん……──

──だからね。色々試してみた。誰も居ない、人里から遠く離れた山の中に、一人篭ってみたり。喜怒哀楽の全てを、無駄に殺してみたり。逆に、無駄に露にしてみたり。…………ま、大抵の『努め』は、微塵程の役にも立たなかったけどね。……大体ね、無理な相談だって。人が生き長らえる限り、眠り続けようとも感情は消えない。人は、『夢』を見るからね。──人里離れた山奥で、一人孤独に暮らそうとも、自然の営みがある限り、人の心は動く。移りゆく自然に接してさえ、何の感慨も抱かぬようでは、生きてる価値なんてない。そうなってしまったら、『生きている』とは言わない。……この世界は何処までも、『魅力的』に出来ている。永劫の刻を生きようとも、『飽く』ことはない程。……故に。『確かに生きたまま』、『何も彼もがどうでもいい』と感じられる場所に辿り着くことは、人にはとても、難しい。………………ならば。どうすればいいと……セツナなら思う……?」

淡々と語ることへ、何かを言い掛けたセツナを遮り、話し続けた昔話の最後を、カナタは『問い掛け』に変えた。

「………どう……って……。それって、それこそ無理なんじゃ……。そんなこと、人に出来ます……か……?」

問われたセツナは、そんなこと、人間に出来る筈がない、と、困ったような顔を作った。

「……そうだね。何処までも、難しい相談だけれども。方法が、ない訳じゃなんだよ、セツナ」

けれどカナタは、その為の道も、この世にはある、と、セツナを覗き込みながら言って。

「そんな場所に辿り着く為の方法はね、それでも幾つかはある。……一つ、『独裁者』になること。一つ、この世の全てを手に入れられる程の、権力と富みを持つこと。…………人間というのは面白い生き物で、物理的な欲求の全てを満たせるモノを持ってしまうと、逆に、何も彼もに、興味という物が持てなくなって、虚しさばかりを覚える動物だから。……でもねえ、独裁者とかいう者にも、訳の判らない権力や富みにも、僕は最初から興味なんてなかったし。僕が辿り着きたかった場所は、そういう次元ではなかったからね。この方法は、一も二もなく、却下になる。だからね、セツナ。僕は……──

『高み』へ辿り着く為に辿れる幾つかの道、それを、心底興味無さそうに、カナタはセツナへ教えた後。

不意に、薄茶の髪を愛でていた腕の動きを止め。

「……………僕はね。違う道を選んだ。────……僕が選んだ道はね、セツナ。『普通に生きて行くこと』、だった」

カナタは、まるで、子供の頃の夢でも見ているかのように。

唯、『普通に生きて行くこと』を、僕は選んだんだよ……と、一言を。

「普通に……?」

「うん、そう。この世界の何処にでもいる、数多の人々と同じように。極々『普通』に生きて行くこと。それが、僕の見付けた『方法』」

「……『方法』……?」

「そうだよ。──人が何故、生きられるか。それは、幸福を求めるからなんだろう。ではどうして人は、幸福を求める? ……その答えの行き着く所は恐らく、幸福の内に在るまま、その生涯を終えたいからだ。けれど僕には今の処、『生涯の終わり』は見えない。何があろうとも、生き続けるのだと僕は決めたから、僕の生涯に終わりなんてない。……だとするならね、セツナ」

「……はい……」

「幸福の内に、その生涯を終えたい、と思う普通の人々に混ざって、僕も又、『普通』に生きれば。どれ程幸福を求めても、どれ程不幸を求めても。それが完成された形になることも、それが終わることもない、って。ありとあらゆる瞬間に、僕はそれを、確かめざるを得なくなる。普通に生きて行けば求められる、生涯の終わりに振り返ることが出来る、沢山の幸福も、沢山の不幸も、僕には与えられることなければ、取り上げられることもない、とね」

「…………カナタさ──

──……誰しにも、平等に与えられる筈の死の恩恵を受けられる者達の中に混ざって、生涯の終わりを持たぬ者が、『普通』に生きて行くということはね、己に与えられる幸福も不幸も、何の意味も為さない、ということを、全ての瞬間に於いて、確認し続ける作業に等しい。普通に生き、普通に死に逝く者達が周りにいればいる程、その作業は際立つ。……来る日も、来る日も。寝ても覚めても。与えられるモノも、奪われるモノも、見付けるモノも、くすモノも。己には、何の意味も為さないのだと……確かめながら生きてご覧? その内、呆気無い程簡単に、何も彼もがどうでもよくなる。…………少なくとも僕は、そうだった」

────セツナのこうべに乗せていた右手の動きを止め。

するっと指先を、小さな肩へと滑らせ。

セツナを見詰めながら、にっこりとカナタは微笑んだ。

「僕はね。自分がそうするのだと決めたから。永い生涯を生きても尚、飽くことのない程『魅力的』な世界に感じ入り、僕を取り巻いてくれる沢山の人達と共に、泣いて、笑って、日々を送った。……良く、知ってるよね、セツナも」

「ええ……。そんな意味があるなんて、思ってもいませんでしたけど……」

「『普通』に生きて行くのだと決めたのだから。そうした日々を僕は、否定しようなんて思わなかったし、拒絶しようとも思わなかった。但、それは、老いて行くからこそ人が持ち得る、目標とか、到達点とか……そう言ったモノを持てない僕には、人々と共に泣くことも、笑うことも、その場だけで消えて行く、その場限りの、意味のない、どうでもいいことなんだというのを、確かめる作業でもあっただけ。………………グレッグミンスターを発って、セツナと出逢うまでの三年間。世界中、あちこち放浪して。僕はね、そうやって生きて行くことを覚えたんだよ、セツナ。……これがね。あの三年の間に、僕が、ずっと……していたこと。今日まで、僕以外の誰も知らなかった三年間が過ぎた後も、僕が、ずっとしていた、こと」

「………………カナタ、さん………。カナタさん、は……っ……」

にこにこと微笑んで。

これが、セツナの知りたがっていた、『三年間』のお話、と、口を噤んだカナタを見上げ。

セツナは酷く、顔を歪めた。

「……ん? なぁに?」

「僕が思ってたよりも……ずっと。カナタさんって…………ずっとずっと、弱くって、ずっとずっと、強かったんですね…………」

……顔を歪めて、彼は。

ぽつり、呟きを洩らした。

すれば、カナタは。

「……うん、そうだよ。多分、セツナが思っていたよりも遥かに、僕は強くて、そして弱いんだと思うよ」

何処までも微笑みながら、セツナを見下ろし、そう答えた。