随分と珍しいことに、トラン湖の畔で軍主殿がうたた寝をして、挙げ句、湖に転げ落ちたらしい、と。

その折の出来事が、少々の尾ひれを付けた噂として、彼等の居城に『蔓延』してより、過ぎること数日。

大抵の者は寝静まり、こんな時間に起きているのは、マリーの管理している宿の酒場に押し掛けている、底抜けに酒の好きな者達程度、と言える頃合い。

そっとカナタは、本拠地最上階の自室を抜け出して、気配を殺して階段を降り、船着き場へ向かった。

船着き場の片隅には、小さな手漕ぎの船が幾隻か繋いであって、それを使い、本拠地の聳える湖上の島より僅かばかり離れた、何の用途も見出せぬような小さな島へと渡って、日が昇る寸前まで、誰にも知られぬよう鍛錬に励むのが、カナタの、夜の過ごし方の一つだから。

その夜も彼は常のように、そこへと赴いた。

解放軍の軍主となってより、そんな風に彼が夜を過ごすのは、幾度となくあって、けれど、三ヶ月程前、己が手で、父・テオの命を絶ってより、夜毎、と言える程、彼はそうしている。

だから、今ではもう、それは、彼の夜の過ごし方の一つ、ではなく、彼の毎夜の過ごし方、へと変わってしまっており。

慣れた手付きで、船の舫を桟橋の杭より、外そうとして。

「…………火急の用でも、出来た?」

その途中で、ぴたり、動かしていた手を止め、振り返りもせず、言った。

「いえ、火急の用、という訳ではありませんが。昼の内には出来ぬ話をしようと思ったら、こちらでカナタ殿を捕まえるしか、手が有りませんので」

……良くしたもので。

足音を立てた訳でもないのに、見返りもせず問い掛けて来た彼へ、何時も通りの落ち着いた声音で、やって来た彼──カナタの正軍師であるマッシュ・シルバーバーグは答えた。

「ならば、何の話を? 軍議なら、明日の朝、予定が立っている。昼の内に出来ない話なんて、ここ最近のことからは、僕には思い当たれないが?」

「……貴方は本当に、化かし合いがお好きですね」

「そう? そんなことはないよ。マッシュ相手に化かし合いなんて。とても、とても。──で、話とは? ……僕の時間も、無限に有る訳じゃない」

突然現れたマッシュの風情より。

恐らく、『痛い』腹を、手厳しく探られる、と踏んでカナタは、空恍ける態度を取ったが。

「では、僭越ですが、お付き合いさせて頂きながら、お話ししましょう。貴方の、秘密の『日課』に。私では、『日課』のお相手は出来ませんが」

どうして、軍師という人種は、こうなんだろう……と、一瞬、カナタは遠い目をしたくなった様相を、マッシュは崩してくれなくて。

「…………判った。どの道マッシュには、『日課』のこと、勘付かれてるだろうと思っていたから」

やれやれ……とカナタは肩を竦め、舫を、解き切った。

初めて、『同行者』を伴って、本拠地の島近くの、本当に小さな島へと渡り。

トン……と船を降りるや否や、仄かにそこへも届く、城の周囲を照らす篝火と、天頂より降りる月明かりを頼りにしている風に、カナタは少しばかり足を進めて、マッシュがいることなど忘れ去ったかのように、携えて来た棍を構え、一人、振るい始めた。

「先日、カイ殿が仰っていましたよ。今の貴方なら、例え立ったままうたた寝しようとも、誤って湖に転げ落ちるような醜態は晒さない筈だ、と」

一方、マッシュは、少々、先んじてしまったカナタとの距離を詰めて、勝手に、喋り始めた。

「…………それで?」

「先日の、あの騒ぎのことですが。本当は、湖に落ちた、のではなく、湖に飛び込んだ、の間違いではありませんか?」

「そうだとしたら? ……そうだったとしても、高がそんなことで、説教を喰らわなくてはならないとは、僕には思えない」

「……そうですか。私に全て、語れと仰りますか。──今日、私の手の者が、報告して参りました。ロリマー地方に残っている帝国の残存勢力が、解放軍に加担しようとしていた辺境の村を幾つか、焼き払った、と。が、反乱勢力鎮圧の任に就いていてたその帝国の部隊は、痕跡も残さず、消息を絶った。そして、そのお陰で、寸での処で救われた村が有る、とも」

「……それは、摩訶不思議だ。でも、救われた村は、幸いだったんじゃな──

──カナタ殿」

目の前に、『架空の何か』を想定しつつ、棍の型をなぞりながら、一人のみの観客に、演舞を披露している如く身を捌き、チラ……っと、視線を流し。

恍け続けてみせるカナタへ、マッシュは、語気を強めた。

「苦言を、甘んじて受けなくてはならないようなことかな?」

すればカナタは漸く、マッシュの言わんとしているそれを、認めるような、認めないような、曖昧な科白を吐き始め。

「件の部隊を、カナタ殿が殲滅為されたことに対して、私が物申さんとしている……と思われたのならば、それは、誤解ですよ」

マッシュは、語気を元に戻した。

「…………解ってる、言いたいことは。『どうして、一人でそんなことをした?』……だろう?」

「ええ。仰る通りです。……どうして、お一人きりの時に、そのようなことを為さったのですか。誰にも、行き先も告げずに抜け出されたのを、咎め立てする気はありません。貴方にも、そういう時間は必要でしょう。ですが、貴方の体は、貴方一人のものではなくて、解放軍、みなのものでもあって──

──解放軍、皆のものでもあって。そのように、旗頭として在るべき者が、常に念頭に置かなくてはならぬのは、決して『倒れぬ』こと。……理解しているつもりだよ、これでも。大事の為に、小事に目を瞑ること、それも、『頂点』に立つ者の務め、だとね。……小さな、村一つと。この戦争に、勝つことと。秤に掛けてはならないけれど、それでも掛けなくてはならないのが、僕の務めの一つだ。解放戦争が、成らなければ。これまでに費えた数多の命は、報われない。これから、費える命も」

「…………カナタ殿に、本当の意味で、それが理解出来ていない、とは私も思いません。貴方はそれを、良くご存知です。…………でも、ならば何故? 私にこうして、小言を垂れられるようなことを、為さったのですか」

──風情を変えず、舞い続けるカナタと。

声の調子を戻し、微動だにせず佇み続けるマッシュは。

暫し、そのようなやり取りを交わして。

解っているのに、どうして、と。

軍師は軍主に、問うた。

……これまで、カナタが確かに受け止めて来たことが、この段になって、急に、受け止められなくなったと言うなら、もう一度、一から言って聞かせなくてはならぬからと、そう思って。

「………………知りたい?」

……と、カナタは。

急に、それまで止めようとしなかった、『日課』の動きを止めて。

トン、と下ろした棍の先を、大地に付けつつ、マッシュを振り返り。

「ならば。軍師としてではなくて、『マッシュ・シルバーバーグ』として、僕の話を聞いて欲しい。僕も、解放軍軍主ではなくて、『僕』として話すから」

小首を傾げ、にこりと笑いながら彼は、約束を交わせと、軍師を見詰めた。