2. クロン寺

トランの西方、ロリマー地方の険しい山懐やまふところに抱かれるようにひっそりと佇むクロン寺に、カナタが姿現したのは、夜になれば天頂に掛かる月が望月へと姿変える頃だった。

未だクロン寺の境内が濃い朝靄に包まれている時間帯、強く叩かれる音に答えて門を開いた住職のフッケンは、そこに立っていた少年の姿に目を見開いた。

「…………カナタ殿……?」

「お久し振りです、フッケン住職。……なぁんてね。今更畏まっても仕方ないかな。おはよう、フッケン。……来ちゃった。朝早くに御免」

自分を認め、些か呆然としたような顔を作った住職に、一応の礼儀、とでも言うように、纏った深緑色のマントの中から、ひょいっと顔を覗かせたカナタは少しだけ畏まってみせて、が直ぐ、あは、と笑い、早朝の来訪を詫びた。

「いえ、それは一向に構いませぬが……。又、如何用で? ああ、それよりも。カナタ殿が誰にも何も言わずに消えてしまわれたと、グレッグミンスターでは大騒ぎになっているとの噂ですが……」

「……ああ、そうかもね。レパントなんか、血相変えてるかも。いいよ、それは放っておいて。……何を言われても……僕にこの国は治められないし、ね……」

ここが仏閣である限り、何時如何なる時にも、如何なる者に対しても、門戸は開かれるのが道理だから、早朝の来訪を詫びられる必要はないが、とフッケンはカナタを制しつつ、グレッグミンスターでの騒ぎのことを知っているか? と見詰めて来たが。

さらっと、事も無げに……とまではいかなかったが、比較的軽い調子で、そんなことは気にしなくてもいい、とカナタは笑い、

「一寸、ここに用事があるんだ。……いい、かな…………」

曖昧な表情を作って彼は、フッケンの傍らをすり抜けた。

「用事……?」

「……うん。正確には、ここに……じゃなくって、封印されていた洞窟……過去の洞窟、にね……」

「それは……っ!?」

「…………平気。大した用事じゃないから。直ぐ、済むと思うし……」

過去の洞窟に用がある、と境内に踏み込んだカナタの背に、フッケンは声を張り上げる。

が、肩越しにカナタは軽く笑って、歩みを止めることなく寺の境内を抜けると、洞窟の入り口に佇んだ。

──全てのことが終わり。

……終わりはしたものの、あの戦争の最中、如何なるモノが彼を襲ったのか、フッケンとて知らぬ訳ではなかったから、唐突に過去の洞窟を訪れた彼を放っておくことも出来ず、さりとて、気押してくるような雰囲気を纏っているその背へ声を掛けることも出来ず。

唯、距離を置いてフッケンは、カナタの後を追い掛けた。

後を追ってみれば、中へ入って行くかと思われたカナタは、躊躇うように洞窟の入り口を見上げ、何か想いに耽っている様子で、

「カナ………────

意を決し、フッケンが少年の名を呼び掛けた途端、中へと踏み込む覚悟が決まったのか、すっと一歩、カナタが動いたから、住職は言葉を飲み込んだ。

しかし、次の瞬間。

一歩を踏み出したままカナタの動きは止まり、微かに背を震わせて俯き、只事とは思えぬ気配を放ち始めた。

「カナタ殿っ!?」

故にフッケンは、その場に駆け寄ろうとしたけれど。

「来るなっ!」

振り返らぬ……否、振り返れぬカナタの強い叫びに、住職の動きは封じられ。

「駄目……っ……駄目、だ……っ。止められな、い……っ」

身動き一つ出来なくなった僧侶の耳に、カナタの苦しげな呻きが届いた。

──事の成り行きを見守るしかないフッケンの前で、カナタはガクリと膝を付いた。

黒くてくらい光を迸らせている、右手の甲を押さえながら。

「ソウル……イーター……っ……。ソウルイーターっ!!」

影のような光を溢れさせる右手を、蹲った胸に抱え、彼は光の正体、魂喰らいの紋章を呼ぶ。

────我が意に従え。

…………魂喰らいを呼ぶカナタの叫びは、そう言っているようであったけれど、宿主と紋章との攻防は、紋章の方に、分、若しくは『一日の長』があったのか。

光は収まることなく辺りを被い尽くして、大地に、山の岩肌に、ピシリと亀裂を走らせ、大いなる揺らぎと振動で周囲を包み込むと、更に光を膨れ上がらせ。

やがて弾けた光は、一帯に凄まじい衝撃を与えて、山肌を崩し、大地を捲れ上がらせ……轟音と共に降り注いだ巨大な土塊達で、過去の洞窟の入り口を封じてしまった。

「御住職っ! 何事ですかっ!」

「御住職っ!」

…………それだけのことが、一瞬の間に終わり。

轟音と衝撃が消え、クロン寺辺りに早朝の静寂が戻った頃、一体何の騒ぎだと、境内から僧侶達が飛び出て来た。

カナタの意志に反して発動した魂喰らいの余波に弾き飛ばされていたフッケンは、弟子達に抱えられ、身を起こす。

「……カ、カナタ殿……っ」

飛ばされた時に打った背なの痛みに顔を顰めながら、何とか立ち上がった住職は、支えようとする弟子達の手を振り切って、あの衝撃の中心にいながら、傷付くことも、衣装に皺一つ寄らせることもなく、蹲り続けているカナタへと駆け寄った。

「御無事か?」

「……ごめ……ん……。こん……な、つもり…………。ここまで……するつもり……なかった……んだけど…………」

肩を抱き、揺すり、顔を覗き込めば、酷く申し訳なさそうにカナタは顔を歪め、すまない……と呟くと、弛緩し、ずるっと崩れ落ちた。

「誰か、とこの用意を」

顔から血の気を失って、意識を手放してしまったらしいカナタを抱き抱え、フッケンは弟子達を振り返る。

「……御住職、その御方は……?」

「儂の旧知の少年だ。何も言うでない。無論、今朝のこの騒動のことも、この少年がここを訪ねたことも」

命ぜられ、幾人かの僧侶は境内へと戻ったけれど、残りの僧侶達は、フッケンが抱き起こした少年を恐ろしげに覗き込もうとした。

僧侶達が見届けようとした顔は、フッケンがそうしたのだろう深緑色のマントで被われて、判りはしなかったが。

住職は、そんな弟子達を厳しい声音で嗜めると、カナタを抱え、境内へと戻った。