その、晩夏の一日を。

あれから数年が経った今でも、テッドは良く憶えている。

──その日、テッドには仕事の予定がなく、それを判っていたのだろうカナタが、朝早く、今日は家庭教師も来ないし、カイ師匠との稽古もないから、遊びに行かないかと、誘いにやって来た。

……仕事があるならいざ知らず、ぶらぶらと過ごしているだけの日に、お友達ごっこのお相手にわざわざ迎えに来られたら、付き合わない訳にもいかない。

小さな部屋の玄関の薄い扉を打ち鳴らし、ひょっこり顔を見せたカナタを見遣って、テッドはそう思い、何も言わずに腰を上げた。

適当に、その辺の草原でもぶらつくか、郊外の小川で釣りでもすれば満足だろう、そう考えた。

…………二人が出逢った年、カナタの齢は一五で、少年然とした、少々荒っぽい遊びに興味を示したがる年頃だった。

以前、カナタの従者のグレミオが、誰に聞かせるともなく語っていた話に曰く、病弱だったにも拘らず、最愛の夫との間に折角授かった子なのだからと、難産になるのも弁えた上でカナタを産むと決めた彼の母は、一人息子の命と引き換えに、息子を我が手に抱くこともないままこの世を去り、母の命と引き換えにしなけれはならない程の難産の果て産まれた彼も又、幼かった頃は、とても病弱だったそうで。

成人出来るか判らない、と言われながら、只でさえ色々と窮屈だろう貴族の家で育ったカナタは、健康を得てより人一倍、少年が好む遊びをしたがる風だった。

故に、外で多少『暴れれば』と、いい加減なことをテッドは思ったのだが。

「少しだけ、遠出をしようよ」

その日は珍しく、『聞き分け』の良い彼がそんなことを言い、渋るテッドを連れ帝都の正門をも越え、強引に野を行き出した。

「…………まあ、いいけど」

……随分、意外なことを言う、そうは思ったものの。

お友達ごっこを演じているだけのつもりのテッドには、強く反対する謂れもなく、黙って、彼はカナタと足先を揃えた。

帝都より各地へと伸びる数多の街道の一つを、目的を持ってカナタは辿っている様子だったが、その行き先に興味も示さず、ああでもないの、こうでもないの、他愛ない日々の出来事を語りつつ歩く彼へ、時に至極適当ないらえを、時に無言の頷きを返し、彼はカナタに従った。

そうしていたら、徐々にカナタの口数も少なくなって、やがて口を閉ざし、だからと言って、自ら話題を提供する気もないテッドと、黙りこくったカナタの道行きは、沈黙に支配されたそれとなった。

────二人、無言となっても。

カナタの目指す先、テッドの従う先、それは、程遠いようだった。

黄金の都の影が見えていた辺りでは未だ石畳に覆われていた街道も、土が剥き出しのそれとなり、何時しか、幾筋かの轍の跡や馬の蹄の跡の残る、歩き辛い道に変わった。

行き交う人々の姿も途絶えがちになり、陽も傾き。

そろそろ引き返さないと、グレッグミンスターの正門が閉ざされる前に帰り着けないのではないか、とテッドが思い始めても、カナタは未だ、歩みを止めなかった。

無言のまま、カナタが足を止めないから、仕方なく歩き続けるテッドと肩を並べて、彼は歩き続けた。

「…………おい」

そんな彼に、流石に焦りを覚えてテッドが向き直った時。

「やっぱり、クワバの城塞は遠いなあ……。日暮れまでには、到底辿り着けそうにもないや」

未だ未だ遠い目的地を、瞳細めて眺め、ぼそっとカナタが言った。

「は? クワバの城塞…………?」

「うん」

「おまっ……。……お前、クワバの城塞って、レナンカンプの先だろう? 徒歩で、しかも半日で、辿り着ける訳がないだろうがっっ」

丸々半日歩き続けて、漸く目的地を白状したカナタの言い種に、テッドは目を剥く。

財のある貴族になら仕立てられる六頭立ての馬車で向っても数日は掛かる程、グレッグミンスターとクワバの城塞は離れていると言うのに、数刻で、しかも徒歩で、到底辿り着ける訳がない、と。

「……でも、どうしても、行きたかったんだ」

けれどカナタは駄々を捏ねるように言って、溜息を一つ吐くと、徐に街道から逸れた。

「おいっ。俺の話聞いてんのかよっっ。何処行くんだっっ」

「んー? 確かこっちに、丘があった筈なんだ。以前、この道を父様と通った時、見掛けてさ」

「だから、そうじゃなくてっっ。……おいっ。……おい、カナタっっ」

緑に覆われた草原へと分け入り、歩調を一層早めて進んで行くカナタへテッドは怒鳴ったけれど、先行く少年の足が止まることはなく。

仕方なし、慌ててテッドは後を追った。

時折テッドを振り返りながら、急かすように眼差しで促し、カナタは、以前見掛けたという丘へと登って、クワバの城塞が聳えている筈の方角を、遠く眺め始める。

「お前…………」

「まあまあ。話は後で聞くから。…………あ、良かった、ここからでも何とか見える。ほら、テッド」

やっとの思いで追い付き、肩で息をしつつ傍らのカナタを睨めば、遠い彼方を指差され。

「何だってんだよ…………」

渋々テッドは、カナタが指し示す彼方を見詰めた。

────そうしてみれば。

瞳一杯に広がる、晩夏の風に緑そよがれる草原の向こう側に、鮮やかな夕焼けに照らされ、一筋の帯のような影となって浮かぶクワバの城塞が見え。

その更に向こう側には、夕日を弾き、湖面煌めかせて霞むトラン湖があり。

その又更に向こうには、陽炎の如く揺らぐ湖面へと沈みつつある、夕日があった。

「………………テッド」

…………彼等が見たそれは。

それはそれは、綺麗な風景だった。

一枚の絵のような、美しい情景。

その風景を見詰めたまま声を放たなくなったテッドを、同じく風景を見詰めたまま、カナタは静かに呼ぶ。

「……テッドは、多分。話してくれたことないからよくは判らないけど、多分、僕よりも世界を沢山知っているんだろうと思うから、こういう景色も物珍しくはないかも知れない。でも、ね。テッド」

「…………何だよ」

「世界は、美しいよ。とても……ううん。世界は、酷く美しい。素晴らしいと思うよ。テッドが父様と出会った時のように、人が、戦火で世界を焼いても。人の戦火に、世界が焼かれても。世界は、惨いまでに美しくて、そして素晴らしいんだと思う」

「……だから?」

「……だから、って?」

「…………だから、何が言いたい?」

「別に? それだけだよ。僕達の生きている世界は、酷く、惨いまでに美しくて、素晴らしい。それを思わせてくれる景色を、テッドと一緒に見たかっただけ。……こんなこと言うと、テッドの機嫌、損ねそうだけど。テッド、時々、世界が止まってるかのような顔してるから。雲も流れない、風も吹かない、湖面も波立たない、絵に描かれた、作り物の風景を見ているみたいな、そんな顔するから。……テッドのこれまでの人生がどうだったのか、僕は知らないから、それを良いとも悪いとも、言えないけど。でも、世界は、酷く、惨いまでに美しくて素晴らしいし、動いてるんだから。この世界の中で、テッドが少しでも笑ってくれればいいな、って、そう思うかな。その序ででいいから、僕と知り合ったことにも笑ってくれると、もっと嬉しいけど」

「…………………………世界のことなんか、なーーー……んにも知らないくせして。良く言うな」

風景より眼差しを逸らそうともせず、静かに己を呼んだカナタが言い出したのは、そんな話で。

「……そりゃ、そうだけどさ…………」

「おーおー。いっちょまえに、拗ねてやがんの。………………でも。そうだな……。世界は、美しいかも。惨いまでに酷く美しくて、素晴らしいかも。それは、俺も久し振りに思った。……そうだよな……。この世界は動いてる、か…………」

苦笑を洩らし、呆れの顔を作り、ぼそりとテッドは呟いた。

そして、ふと思った。

この三〇〇年、己は一体何を見て来たのかと。

そして、更にふと思った。

止まった刻だけを見続けて来たこの三〇〇年、自分に面と向って、動き続ける世界は、酷く、惨いまでに美しくて素晴らしいと言ったのは、この少年だけではなかったかと。

惨いまでに美しい、この素晴らしい世界の中で、止まった刻を動かせ、と。

そう言って退けたのは。