次々、倒れ込んで行った追っ手の姿に、カーラは目を見開いた。
そうすれば、深夜の闇の中、今度はばさりと、マントのような布地が翻り。
翻ったそれは、抜け落ちた鳥の羽のように、舞いながら、草原の上へと落ちて。
ふわりと地に舞ったそれを目で追ったカーラが、再び、前を見上げたら、そこには。
右手に棍を構えた、誰かの背中があった。
「…………誰?」
膝付いたまま見上げた背中は、大人とは思えず。
けれど、子供にも見えず。
少年のそれと、カーラには映ったけれど、突然現れた誰かは、頭髪を、バンダナのような布で覆っていたから、少年かも知れないし、少女かも知れないし……と言った、曖昧なことしかカーラには思い至れなかった。
……誰なのか、と彼が問い掛けても、その人は答えてはくれず。
唯、カーラを庇う風に、その手の中の棍を振って、少年らしいその人は、真夜中の草原の、草を蹴った。
そして、その人は。
棍の一閃のみで、いとも容易く、残りの兵士達を倒し切り。
くるっと振り返ると、脱ぎ去ったマントを拾い上げ、次いで、身動き一つ取れずにいるカーラの二の腕を引っ掴み、強引に立たせると、ちらりとカーラの姿を一瞥して、有無を言わせず抱き上げ。
東も西も判らない筈の、夜の草原を疾走した。
遠くの森の何処かが、確かに燃えてはいる。
──傭兵砦を包み込んでいた森より、その程度しか判らない場所へ辿り着くまで、『誰か』は、カーラを抱えたまま走り。
「……あ、いたいた」
待ち人を見付けたような声を出して、漸く足を止めた。
その時、その『誰か』が放った声は、男のそれで。
漸くカーラは、自分を助けてくれた『誰か』が、自分よりも少しばかり年上かと思える、少年なのだと知った。
「ああ、どうでしたか? 坊ちゃん。…………って、え?」
自分よりも少しばかり年上らしいとは言え、同じ少年──しかも、あんなにも強い少年に、自分は助けて貰ったんだ……と、相手の顔を見上げることも、その腕の中から抜け出すことも忘れ、カーラが呆然としていたら、少年が放ったその声音通り、そこにいた『待ち人』が、坊ちゃん、と言いつつ少年を迎えながら、驚いた風な声を放ったので、カーラはのろのろと、声の方へと目を向けた。
見遣ってみたそこには、野宿をする為の焚き火と、焚き火に照らされた、金髪の男性の姿があって。
「詳しいことは後で話すから。グレミオ、薬出して」
この人達って…………? と、首を傾げ始めたカーラを、坊ちゃんと呼ばれた少年は、焚き火の端に敷かれた毛布の上に下ろし。
「……あ。やっぱり、いい。薬じゃ間に合わないから」
カーラの怪我の具合を確かめると彼は、口の中で詠唱らしき物を唱えつつ、左手を輝かせ始めた。
「紋章……、ですか……?」
呟きが終わり、左手が輝き出した途端、ふわっとした何かに包まれて、瞬く間に体の痛みが引くのを感じ、カーラは問うたけれど、光が褪せるまで、彼は何も言わず。
「…………うん、もういいよ。──大丈夫? 未だ何処か、痛むかい?」
癒しの魔法が消えて漸く、俯き加減にしていた面を持ち上げ、カーラの顔を覗き込んだ。
「一体どうしたんですか、そんな怪我をして。何が遭ったんです?」
少年の後ろからは、グレミオ、と彼に呼ばれた男性が、気遣わし気に、やはりカーラを覗き込んだ。
「……えっと…………。あ、の…………────」
だが、咄嗟には。
少年からの問いへも、グレミオからの問いへも、カーラは答えを返せなかった。
──自分を庇い、助け、癒してくれて。
たった今、片膝付いて身を屈め、覗き込んで来る人が。
とても整った、凛々しい顔立ちをしていたから。
そして、その彼の背後から覗き込んで来た青年が、とても温和な、優しい顔立ちをしていたから。
真っ直ぐに他人を見詰める質らしい、とてもとても強い、自分を助けてくれた、少年が。
一瞬、子供だった頃絵本に見た、金髪の天使様を従えた、戦いの神様に見えて。
言葉を返すのも忘れて、カーラは、ぼうっと、少年の瞳に魅入ってしまった。
黒曜石のような色した両の瞳で、自分を真っ直ぐ見詰めて来る、遠い異国の戦いの神様、と。
「…………おーい?」
「未だ、何処か痛むんでしょうか……」
──そんな風に思ってしまったが為、ぼんやりと少年を見詰め返すしか、カーラがしなくなったから。
少年も、グレミオという彼も、困惑したように、益々カーラへと顔を近付けたが、少年の顔が迫った所為か、ふわっと、幸せそうにカーラが笑ったので、へっ? と少年は、ヒラヒラ、カーラの前で手を振り。
「明らかにおかしいよね。頭でも打ったのかな……」
「坊ちゃん……」
「……だったら、もう一回叩いた方がいいのかな」
「そういう問題じゃありません…………」
少年とグレミオは、何処か間の抜けたやり取りを始め、やがて、痺れを切らしたように、少年は、徐に両手を持ち上げて、ペシっ! ……と、カーラの両頬を叩いた。
「…………え……? あ……。あ、ああああ、あのっ! た、助けて下さって、どうも有り難うございましたっ!」
すれば、ペンっ! と頬を叩かれた所為だろう、やっと、カーラは我を取り戻し、飛び上がるように身を起こして座り直し、姿勢を正してから、慌てた風に勢い良く、深々頭を下げた。
「本当に、大丈夫……?」
「は、はいっ!」
「なら、いいけど」
まさか、自分のことを眺めながらカーラが、天使様を連れた軍神、などと言った風なことを考えていたとは、思いも寄らぬ少年は、本当に平気なのかなと、疑わしそうにしていたが、まあいいか、と、そのままその場に座り込み。
「どうしてこんな時間に、君みたいな少年が、あんな所にいたの? ……って、訊いてもいいかな?」
又、カーラの顔を覗き込んだ。
故に、先程自分が想像してしまったこと、その所為で犯した失態と、再び近付いて来た相手の顔とに、頬を赤く染めながら、軽く俯き、カーラは二人に、事情を話し始めた。
「僕、あの森の中にあった、都市同盟の傭兵砦にいたんです。でも……ハイランドのルカ・ブライトに攻められて、砦は陥とされてしまって。逃げる途中だったんです」
「……逃げる、って、一人で?」
「あ、いえ。義姉とか、親友とか、あの砦にいた他の人達とかとも、逃げ出した時には一緒にいたんですけど。途中で逸れちゃったんです。そうしたら、ハイランドの兵士に追い付かれちゃって……」
「ああ、そこに僕が、鉢合わせたんだ。成程」
「ええ。本当に、どうも有り難うございました。……あの、あの砦に何か、用でもあったんですか……?」
「ん? そういう訳じゃないよ。野宿してたら、森の向こうが赤くなるのが見えてね。何か遭ったのかと、様子を見に行っただけ。そうしたら、そこに君がいた、って訳。処で、君、えーと?」
語られた事情に、少年は、納得を見せ。
次いで、己がどうしてあそこに居合わせたのかを語り、そうだ、と、カーラの名を尋ねて来た。
「あ、僕、カーラって言います。すみません、助けて貰った人に、名乗りもしないで……」
「ああ、そんなこと、気にしなくていいよ。……僕は、ユイン。あっちの彼は、グレミオ。──改めて、初めまして、だね。カーラ……でいいよね? カーラ君、なんて呼ぶの、まどろっこしいし。──さて、カーラ? 君はこれから、どうするの? お義姉さん達と、落ち合う場所とか決めてるの?」
問われるまま、カーラが名を名乗れば、少年も又、己が名を名乗り。
「えっと、傭兵砦を逃げ出す時に、ミューズの街で落ち合おうって言われたんで、多分、ミューズに行けば会えると思います。ミューズに行くには、トトの村を越えないと駄目ですから、もしかしたら、トトで待っててくれるかも知れませんし……」
心配そうな顔を止めない少年──ユインに、カーラは更なる事情を語った。
「…………トト、か。……僕もね、あの村の方に用事があってね。目指している最中なんだ。だから、カーラさえ良ければ、トトまで一緒に行こうか? 夜が明けても、ハイランドの部隊が掃討をしていたら、危ないからね。送ってあげるよ、トトまで」
トトの村を経由して、ミューズに行く予定だ、とのカーラの話を受け、ユインは、ならば、と言い出した。
「え、本当ですか? 構わないんですか?」
「ああ。行く方向、同じなんだし」
「有り難うございますっっ。……良かった…………。一人じゃ一寸不安だなって思ってたんです」
「そっか。じゃあ、丁度いいね」
申し出に、ぱっとカーラが顔を輝かせれば、決まり、とユインも笑みを浮かべ。
「カーラ君、でしたよね。──はい、カーラ君。お砂糖たっぷり入れた、紅茶淹れましたから」
火の傍で茶を淹れていたらしいグレミオが、二人の傍へと寄って、彼等にそれぞれ、カップを手渡した。
「すみません。本当に有り難うございます」
手渡されたカップを両手で受け取って、心底嬉しそうな、何処か泣き出しそうな、そんな顔をカーラは作る。
「いいんですよ。困った時はお互い様です。……大変だったんでしょう? 色々と」
だからグレミオは、トントンと、子供をあやすように、カーラの背を叩いて。
「……いいから。何も、気にしないで。それ飲んで。今夜は僕達と一緒に、寝よう?」
カーラを安堵させる為の笑みを、ユインは浮かべてみせた。