出来るだけ、早く。迅速にね、と、そうユインに言われるまま、慣れないながらも部隊を進め、恐らく、その奥は深いのだろう森に沿わせ、ユイン曰くの『旗』目指しつつ、進軍しながら、眼前に迫って来た『旗』、その敵部隊を見据え、ギュッと、両手の中の、トンファーの柄を握って、身を固くしたら、ツン……と、棍の先で軽く、脇腹辺りをユインに突かれ。
ほらほら、と、促すような目をされ。
眼差しだけで、彼が言わんとしたことを、何とか汲めたカーラは、得物を握り締めた右手を強く翳し。
「皆、行くよっ! 総大将の部隊を追い詰めれば、敵軍を押し返せるっ。ミューズを守れるっっ」
咄嗟に思い付いた言葉を、そのまま高く叫んだ。
……そうすれば。
力強く響いた彼の言葉に応えるように、兵士達からは、雄叫びが上がり。
「…………上等」
にこっ、と、柔らかい笑みをユインは、カーラへと向けて、が、直ぐさま、その面から色を消し。
敵・総大将の部隊の横腹目指して突っ込んで行く、カーラの部隊の兵士達と共に、その場より駆け出した。
故に、カーラも又、遅れてはならないと、その後に続いた、けれど。
──────それを、人に解せる言葉で喩えても、赦される、と言うなら。
『それ』はまるで、一陣よりも疾く、そして鋭い、一筋の、風のようだった。
緑の草を蹴り、駆けて行く彼の、その後ろ姿は。
漆黒の墨を筆で刷いたような、一筋の、線だった。
そうして、カーラの目の前で、その『後ろ姿』は。
それまでのように、駆ける為でなく、跳ぶ為に、トン……と軽く、大地を蹴って、跳躍しながら棍を操り、弧を描く風に、その先端を薙がし、馬上にいた敵兵の一人を地へと叩き落とすと、大地へ戻ることもなく、そのまま、主を失った軍馬の背へ左手を付いて、一切の無駄なく身を翻し、鞍に跨がり。
何時の間に取ったのか、その手綱を掴んで、軍馬の鼻先の向きを変えると、『後ろ姿』──ユインは再び、風のように。
敵軍と、自軍が入り乱れる、その中へと飛び込んだ。
……紛れたが、最後。
敵兵達が身に着けている、鈍い色の甲冑に溶け込んで、もう、カーラには、ユインの姿を、目で追うことが出来なくなった。
「…………凄、い……」
ユインが、己の傍を離れ、敵陣の中に紛れてしまうまでに必要だった刻、それは、数瞬程の刻だったから、カーラは、只目を瞠って、唖然、とし掛けたが。
いけない、と、ふるふる彼は又首を振って、敵の中へと突っ込んだ。
ユインのように乗馬をすることは、カーラには出来ないけれど、彼の養祖父だったゲンカクが、未だ生きていた頃、もしもお前が大きくなって、戦場に行くようなことになった時、困らないように、と、『馬の倒し方』を教えてくれたことがあったから、軍馬を奪うことは叶わないが、倒すことなら出来る、馬を倒すことが出来れば、騎乗している敵を引き摺り倒すことだって出来る筈、と、彼は、亡き養祖父の教えを再現した。
その再現を、試してみた回数分、全て上手く行うことは出来なかったけれど、それでも、先ず上々とは言える程度、彼はそれを叶え、そしてその分だけ、敵を倒した。
──トンファーで打ち据える相手より、返り血が迸ることは少ないけれど、戦って、倒した分だけ、己の手許で敵の臓物がひしゃげ、骨が砕けて行くのは確かに感じられ。
口で言うよりも、ずっと『怖い』……と、時折、目を背けそうになりながらもカーラは、何とか、前を向き続けていた。
……そして、そんな風に彼が、何とかでしかなくとも、前を向き続けていたら、数多の甲冑の中に溶け込み、消えてしまっていたユインの姿が、何故か急に、パッと目の中に飛び込んで来て。
「ユインさん…………」
戦いながらも、彼は、見付けたユインを目で追った。
──多分この為に彼は、緑の草原では目立つ、漆黒の衣装を選んだんだろうな、と思わずカーラが頷いた程、ユインは、鈍色の装束達の中に混ざり、溶け込み、けれど。
衣装や装束の色合い如きでは、決して誤摩化しきれない、存在そのものの色を浮かび上がらせつつ。
左手のみで手綱を操りながら、全てを何処かに置き去りにして来たような、そんな顔付きをして、その棍を振るっていた。
カーラのトンファーのように、敵を斬り捨てるでなく、打ち据える為の武器を、操っているのに。
ぬるりとした血がこびり付いている、棍を。
倒した敵の数の多さを、雄弁に物語る、赤い痕の付いたそれを、事も無げに、操りながら。
…………その様を、どうにかして喩えるとするなら、それは、…………そう、人の風情、ではなくて。
薄紙のような物を倒す風な、『軽い』仕草で、それでも確かに、人、を倒す、『あの夜』、カーラが思ったような、遠い異国の、戦いの神様、の如き風情で。
立ちはだかる敵に、絶対の死を与える、厳しい神様のような風情で…………──。
「…………退却……。──退却だ! 全軍、退却しろっ!」
気が付けば、カーラの目の前で、ユインは。
随分と、きらびやかな甲冑を纏った、敵の総大将らしき男が、酷く悔しそうな顔になって、高く、宣言をする処まで。
その、後ろ姿を晒しながら、敵を、追い詰め切っていた。
退却、の命令が、敵総大将から洩れたのを聞いて、カーラは咄嗟に、焦ってしまった。
このまま、あの人を倒してしまえれば……と。
つい、そんな考えを、脳裏に掠めさせてしまった。
「……あっ…………」
それ故、彼は、無意識の内に数歩、じりじりと下がって行く、敵の将軍らしき彼の方へと、進み出てしまった。
しかし、彼が一人、少しばかり前へと進み出た処で、カッ……と、土を蹴る馬の鐙の音がして、次いで、手綱を強く引かれたのか、軍馬の高い嘶きが起こり。
「……こら」
ひょいっとカーラは、やって来た馬上の人に、襟首を引っ掴まれた。
「ユインさん……」
「深追いはいけない。僕達の仕事は、敵を倒すことではなくて、足止めすること。……ちゃんと弁えないと、痛い目見るよ?」
「…………すみません、御免なさい…………。一寸、焦っちゃって……」
身を乗り出し、屈め、腕を伸ばしてカーラを止めたのは、やはりユインで、彼に止められたカーラは、振り返り様、彼に嗜められて、申し訳なさそうに俯いた。
「戦い方は一緒でも、これは、雪合戦ではないから。君が、しっかりしないと。……うん、でも、頑張ったね、カーラ。だけど、頑張り過ぎなくても、いいんだよ?」
カーラが俯いた後も、若干の間、ユインの嗜めは続いたけれど、直ぐに彼は、襟首を掴んでいたその手で、ぽん、とカーラの頭を撫で。
「カーラ。一寸、跳んで?」
「え? 跳ぶんですか? えっと……」
促されるまま、トン、と軽く飛び跳ねたカーラの腕を掴み、強く引いて持ち上げ、ユインは彼を、馬上へと乗せた。
「えっ?」
「いいから、いいから。ほら、手綱持って。両手で、しっかりね。へーき、へーき。怖くないから」
「怖くはありません、けど……。でも、どうして?」
ぽすり、軽い音を立てて、ユインの前に座らせられ、身を捩って振り返りながらカーラは、怪訝そうな顔をする。
「ビクトール達の所に、戻るからさ」
が、カーラがそんな表情を拵えても、ユインは唯、にこりと笑うだけで、カーラが、手渡してやった手綱を確かに握っていることを確かめると彼は、自らは、ひょい、っと、大地に降り立ってしまった。
「……僕、馬乗れません」
「大丈夫。轡、引いてあげるから」
一人、馬上に残されカーラは、至極不安そうにしたけれども、ユインはさっさと馬の轡を引いて、ビクトールやフリック達のいる方角目指し、歩き始めた。
そうやって彼が進むから、馬も、カーラを乗せたまま、大人しく進み。
彼等の後に付き従うように、兵士達も、又。
「…………どうして、こんなこと……?」
「この部隊は、充分過ぎる程、与えられた仕事をこなしたんだから。部隊も、部隊長の君も、威風堂々、帰った方がいいだろう?」
「でも……。皆、頑張ってくれた、って思いますけど。一番働いてくれたのはユインさんで、ユインさんいなかったら、こんな風にもなってないと思いますけど……」
「……あのね、ユイン。部下、って言うのは、『上』の為にも働くものなんだよ。『上』の為に、戦場ですら働いてくれる部下を持つのは、上に立つ者の力量の一つだから。君はそれを、誇ってればいいの。取り敢えずはね」
「ユインさんは、僕の部下なんかじゃないじゃないですか。一から十まで、ユインさんに教えて貰って、僕は、その通りにやっただけなのに……」
「い・い・の。君は部隊長なんだから、そうしているのも、君の仕事の一つなんだよ。……その内判るよ。君が、これからもこの生活を続けて行くならね。……それに。僕は、君の為だけに手を貸しているようなものなのだから。それ、受け止めておいてくれれば、それでいいよ」
──仕方なし、と言った感じで、されるがまま、ユインに任せ。
それでも、と馬上から話し掛ければ、理由のあることをしているだけだと彼に告げられ、カーラは唯々、戸惑った。
「そういう……もの、なんですか……?」
「うん、そういうもの」
「じゃ、あ……。お言葉に、甘えます……」
けれど、幾度となく、ユインの方を窺ってみても、彼は何処までも、微笑むだけしかしてくれなかったから。
ユインさんがそう言うなら、と、カーラは、そこから先は大人しく、馬の背に揺られ。
その先に集まりつつある、ビクトールやフリック達の元を目指した。