補給と態勢の立て直しをする為、一時的に戻っただけだったミューズの街の例の宿屋で、帰って来るのを待ち構えていたかのようなアナベルに、カーラは捕まった。
こんなことになってしまったから、少し無理矢理にでも場を作らないと、お前やナナミにしたいと思っていた話が出来なくなってしまうかも知れないから、今夜の内に、市庁舎へ来てくれないか、と。
宿屋に入った彼を見付けるや否や、カツカツと靴音高く近付いて来て、カーラの腕を掴みながらアナベルはそう言い、カーラは唯、それに頷いた。
再びの出陣は、明日の朝になるから、夜の間、少しくらいなら……と、そう思った。
だからカーラは、ゲンカクじーちゃん絡みの、どうしてもしておきたいアナベルさんの話って一体何だろう? と首を傾げながらも、気楽に頷き。
夕食を摂ったら、ナナミと二人アナベルの所へ行くと言ったカーラと共に食事をした後ユインは、僕は少し出て来る、と、黒色の衣装を脱ぎ、何時も通りの姿に戻って、ふらり、ミューズの街へと出た。
宿屋を出る時に、カーラとナナミの二人が、
「あれ? ジョウイ、何処行っちゃったんだろう」
と、そんなことを言い合っていたのが耳に留まって、そう言えば一昨日だったかカーラが、この数日、ジョウイの様子がおかしくて、と呟いていたそれを思い出した彼は、少しばかり、姿が見えないというジョウイのことが気になったけれど、まあ、いいか、と。
今回の戦いが終わったら、どうせ自分は、ミューズからもカーラ達からも離れる身だし、と。
只、ふらりふらり。
行く先の当ても付けず。
散策するように彼は、夜の帳が降りた、ミューズの街中を彷徨った。
彼等が宿してしまった真の紋章のことや、時折、どうにもかつての自分に似ていると思えて仕方がないカーラのことが、気にならないと言ったら嘘になるけれど、これ以上自分がカーラの傍にいても、どうしようもないだろうし、それで何が変わるという訳でもないだろうし、そもそも自分のような者が、一つの街、一人の人、そこに留まるのは、未だ間違いのように思えるから。
さて、どうやって別れを告げて、旅立とうかな、と。
軽く一言、「じゃあね」とだけ言って、カーラの元を離れられなくなっているその事実が、カーラと別れることに後ろ髪を引かれていることの証明なのだと、自身にも気付けぬまま、別れの言葉を考えつつ、足を進めて。
「…………ん?」
…………ふと。
先程、見当たらない、とカーラ達が言っていたジョウイの後ろ姿を見掛けて、気が付けば、もう市庁舎が直ぐそこに臨める所にまで迷い込んでしまったその足を、彼は止めた。
──相手は、全く見ず知らずな訳ではないジョウイだから、そんなつもりは更々、ユインにはなかったのだけれど。
本能と言うか、習慣と言うか、そんなものに無意識の内に従い、物陰に身を潜め、気配を殺して、見掛けた彼を目で追えば、ジョウイは辺りを窺うようにしながら、灯りの落とされた市庁舎の中へと消えて行き。
「…………おかしいな」
思わずユインは、携えて来た棍を、握り直した。
数刻前、宿屋を訪ねたアナベルが、お前達の養祖父のことで話がある、と、カーラとナナミに告げていたのは、その時は彼等と共にいたジョウイとて聞いていた筈で、自分よりも遥かにあの姉弟と付き合いが深く長い彼が、その辺りの複雑な事情を知らぬ訳もなく、カーラ達と共に、ゲンカクの話を聞きたいとジョウイが思ってここにやって来たと言うなら、余計、単独で、しかもあの二人よりも先にここへ来ることなど、有り得ないと、ユインには思え。
市庁舎に入って行く彼の横顔が、何処か、悲壮とも言える何かを秘めていたようにも、思え。
するり……と、物陰よりいでて、気配を殺したままユインは、ジョウイの後を尾けるように、市庁舎へと潜り込んだ。
────忍び込んだ市庁舎の一階ホールは、薄暗く。
明かり取りの為に灯されているらしい、小さな蝋燭の灯りが一つ二つ、市長室へと続く階段付近を、頼りなく浮かび上がらせているのみで、そんな中、それでも、一歩一歩、敷物を確実に踏み締めるようにして昇って行くジョウイの後ろ姿が、ユインの目に、遠く映った。
……その、遠い後ろ姿を、黙って見上げていれば。
アナベルの私室へと続く唯一の廊下の前に立っている見張り番の兵士とジョウイが、何やら言葉を交わすのが判り。
「一寸、骨が折れるかな」
ぽつっと呟きながらユインは、市庁舎の扉の影から飛び出し様、玄関先を飾っていた幾つかの植木鉢の一つを掴み上げ、気配も、足音も殺したまま一息に走って、跳ぶように階段もやり過ごし、ジョウイと見張りの兵とのやり取りが終わるより先に、再度、物陰に隠れた。
彼が身を潜めると同時に、ジョウイと兵との短いやり取りは消えて、ジョウイは先へと進み、兵士は又見張りへと戻り。
ジョウイの背が、暗い廊下の向こうへ完全に消えてしまうまで待って、ユインは階下へと、先程手にした、小さな植木鉢を放り投げた。
遠く投げられた植木鉢は、放物線を描いて、カシャーン……と破壊音を立てつつ、階下の床にぶつかり、粉々に砕け。
誰もいない筈のロビーで起こったその音を不審に思った見張りは、慌てて階段を駆け下りて行った。
その隙に、ユインは、誰にも見咎められぬまま、ジョウイの向かった方向へと駆け出し、走り抜けた廊下の最奥にあった扉の前に佇んで、中の気配を窺った。
…………けれど。
佇んだ扉の向こう側の気配は、廊下までは上手く伝わって来なかった。
やり取りされているらしい、アナベルとジョウイの声も、厚い扉に阻まれて、とても、聞き取り辛かった。
時折、微かに、ジョウイの物らしい声、アナベルの物らしい声、それが響き。
どうにも、嫌な予感がして仕方がない、何事もなければいいのだけれど……、と、苛立ちに近い感情を、ユインが覚え始めた時。
それまでと変わらぬ、低く小さな、声である筈なのに。
何故か。
「…………御免なさい、アナベルさん……」
ジョウイが彼女へと詫びを告げる声が、はっきりと、ユインの耳にも届き。
「甘いよ、少年っ!」
次いで、強く高い、アナベルの声と、グラスが砕け散るような音も届き。
パンっ!! ……と、ユインは、扉を開け放った。
「………………あ……」
「……ジョウイ君……?」
──何事もなければそれでいい。
無礼を叱責されるだけのことで済むなら、それでいい、と。
勢い良く、眼前の扉を開け放ち、室内に飛び込んだら。
床の上で砕け散ったワイングラスと。
綺麗な赤紫色の液体と。
ジョウイへと、腕を伸ばし掛けつつ動きを止めた、アナベルと。
手にした、小さな、それでも灯りを弾いて光るナイフで、たった今、アナベルを刺したジョウイが。
ユインの瞳には飛び込んで来た。
「君は、一体、何を……」
…………ユインが、強く扉を開け放った所為だろうか。
止まってしまっていた何かが、ずる……っと動き出したかのように、立ち尽くしていると見えたアナベルの体は弛緩し、床へと崩れ落ちて。
倒れ行く彼女の身の重みで、深々と刺されたナイフは抜け、ジョウイの手の中に残り。
次の瞬間には、カラ…………と。
軽い音を立てながら、帯のようにアナベルの血がまとわり付いたナイフも、ジョウイの手より、滑り落ちた。
「…………ユイン、さん……。何故、貴方が……」
「……ジョウイ君。僕も、訊きたい。……何故?」
カラカラと床の上を滑って行くナイフの行く先を見ようともしないで、唯、驚愕の眼差しで、ユインのみをジョウイは見詰め、ユインは、それはそれは厳しい色を乗せた瞳で、ジョウイを射抜いた。
「…………僕は……」
「……僕は? 何?」
「………………っっ……」
「……ジョウイ君。……ジョウイ。ジョウイ・アトレイドっ。逃げるなっ!」
見詰めた相手に厳しさを返され、何かをジョウイは言い掛けたが、直ぐに言葉を詰まらせ、踵を返す風に、ユインへと背を向け。
向けられた背へ、ユインは叫んだ。
「逃げる気か。自分の行いに、背を向け逃げる気か。そんなことをするくらいなら……っ……」
とても鋭かった叫びに、ぴたり、ジョウイの足は止まり、それまで以上に厳しく鋭い声で、ユインは話し出したが。
「あれ? 扉開いてる」
「変だね。何か遭ったのかな」
アナベルとの約束を果たす為にやって来た、ナナミとカーラの声が、廊下よりして、あ、と、ジョウイも、ユインも思う間もなくカーラ達は、その部屋へと踏み入り。
「え? ユインさん……に、ジョウイ?」
「あ、本当だ。どうし…………────。アナベルさんっ!?」
カーラとナナミは。
ユインと、ジョウイと、そして、床に倒れ伏したアナベルを、一人一人見比べ、声を上げた。
「アナベルさんっっ。しっかりして、アナベルさんっっ」
「……何が……、何が遭ったんですか、ユインさんっっ。ジョウイ、何が遭ったのっっっ!」
そうして、ナナミはアナベルの元へ駆け寄り、カーラは、ユインやジョウイの方へと、数歩踏み出し。
だが。
二人より、答えは返らず。
「…………カーラ……」
「ジョウイ……?」
「すまない、カーラ…………」
「え、ジョ……ジョウイっっ」
床を滑った、血に塗れたナイフを拾い上げ、ジョウイはその場より逃げ出すように、ベランダへと飛び出して行った。