もう、その名を呼ぶことも出来ず。
飛び出して行ったジョウイの背中を、只、目線だけで追って。
「ユインさん…………? まさか、ジョウイ、が…………。嘘、ですよね……? 何で、ジョウイ…………」
カーラは、縋るようにユインを見た。
けれどユインは答え難いように、その漆黒の瞳を覆う、両の瞼を閉ざすのみで。
「…………アナベルさん……? アナベルさん。アナベルさんっっ」
唇を噛み締め、ユインから顔を背け、ナナミと並び跪き、カーラはアナベルの体を抱き上げようとした。
すれば、アナベルの体を挟んでカーラの正面に跪いたユインが、カーラの代わりにアナベルを抱き起こし。
「アナベルさん…………」
うっすらと目を開いたアナベルを、泣きそうな声でカーラは呼んだ。
「……話して……あげる、こと、が……出来なか……った……。詫びる……こと、が……出来なかっ…………。謝らな……くては……いけなかった……のに……。────…………お逃げ……。早く、お……逃げ……。…………早くっっっ!!!!」
歪めた顔で見下ろして来るカーラを、何とか見詰め返し、薄く、微笑むようにしながら、アナベルは、絶え絶えの息と声で、告げる。
「アナベル様! 何者かが、市門の鍵を開いた模様です。ハイラン…………────。アナベル様っ!!」
……だが、逃げろ、との彼女の言葉にカーラが答えるより先に、報告を携えたジェスが飛び込んで来て。
彼も又、傷付き、死に逝こうとしているアナベルを見て、悲鳴に良く似た叫びを上げ。
「お前達っ。これは一体、どういうことだっっ!! どうして、何で、アナベル様が…………っっ。──……い、医者を……医者を呼んで来る! だからっ! いいか、それまで動くなよっっっ!」
怒りに任せたように喚き散らしながらジェスは、元来た廊下へと、飛び出して行った。
「…………ほ、ら……。言った……通り…………だろう……? 逃げない、と……ハイランド、が来る…………。死……んじゃ、いけ、な、い…………。だから……お逃げ…………」
力のない瞬きを、幾度も繰り返し、ジェスが行ってしまった後もアナベルは、逃げろ、それだけを繰り返す。
「……アナベルさん…………っ」
そんな彼女へ。
カーラはもう、名を呼び返すことしか、出来なかったけれど。
「アナベル」
ユインは静かな、抑揚のない声を放ち。
「……何……だい…………?」
「もしも、彼に。……ビクトールに、伝言があるなら」
「…………そう……さねぇ……。────ああ……。ワイ……ン……。美味し……かった……って……。何時か……一緒に……って……。むか、し……約……束、した、みたい……に……。ワイン……飲む……それだけ、の為……に……、カナカンに…………行こう、って……。………………ああ……。やっ……ぱり……言わなくて、いい……。言わないで、おくれ……。愛してた……って……言いたくなる、から……。一緒に居たかった……って、言いたく、なる、から…………。だから…………っ。言わないで……。何も…………」
もしも、あの男に、伝えたいことがあるなら、と。
静かに言ったユインに、アナベルは。
『遺言』を言い掛けて、けれど、ゆるゆると首を振り。
ユインは、そっと。
抱き上げていたアナベルの体を、床の上に下ろした。
「アナベルさ…………──」
何一つ、言葉に出来ず、只、黙って見守っていたナナミは、声を上げて泣き出し。
「アナベルさん……。ユインさん…………っ」
カーラも、堪えきれなくなったように、ポロポロと、涙を流し始めた。
「………………行こう。ミューズを出るんだ。一刻も早く」
カーラと、ナナミの手を取って、二人の肩を、それぞれ抱き抱えるようにし、ユインは。
足の進みを鈍らせる、カーラとナナミを引き摺るように、市庁舎を後にした。
慌ただしく、ミューズの市兵達が行き来する、混乱激しい市庁舎を飛び出し、街中を駆け抜け、根城にしていた宿屋へ飛び込んだら、もう、ハイランド兵士達が攻め上がって来た事実を知っていたレオナに、彼等は出迎えられた。
「話は聞いたよ。ビクトールとフリックは、傭兵部隊の連中と、飛び出してった。他の連中も、何とか踏ん張ってみるってさ。取り敢えず、私は戦えない連中連れて、直ぐにこの街を出る。落ち合う先は、湖の対岸の、サウスウィンドゥの街に決まった。だからあんたらも、そこへお行き。今は、後先考えず、兎に角逃げるんだよ。死んじまったら何にも始まらないだろう? ほら、急ぎな!」
自分達の帰りを待ち侘びていた風なレオナに、サウスウィンドゥへ向かえ、と伝えられ。
「ああ、ユインさん、だっけ? あんたに、ビクトール達から。『すまないが、カーラ達のこと、宜しく頼む』、ってさ」
ユインは更に、念押しするようにされ。
「…………判ってる。サウスウィンドゥの街だね?」
「そう。ここから南に行けば、コロネ、って街がある。そこから、デュナン湖の対岸の、クスクスの街に船が出てる。それに乗って、又南下すれば、サウスウィンドゥだ。……頼んだよ」
「……ああ」
手早く荷物を纏めて来たカーラと、ピリカを抱き上げたナナミを連れて、何かを諦めたような、遠い目をし、レオナの説明に頷いてみせたユインは、ハイランド軍に陥落させられつつある、ミューズの街を走り出た。
「ビクトールさん達、大丈夫なんでしょうか」
「心配することはないよ、あの二人なら」
「……そうですよね…………」
「それよりも。僕達や、街の人達の後を追い掛けて来る、どうにもうるさいハイランドの連中、何とかしないとね」
「あ、ああ……。そっちが先ですよね……」
覚束ない、星明かりのみが頼りの、暗い暗い夜道を、息が切れても尚走り続け、短いやり取りをユインと交わし。
アナベルの死、アナベルに死を齎したらしいジョウイ、それらに気を取られ、ともすれば疎かにしてしまいそうになる、追っ手への対処をしようと、カーラは腰帯に差したトンファーを取り上げた。
「……いいよ。気にしないで」
だが、焦る風にトンファーを構えようとした彼を、ユインが制した。
「え?」
「君は、自分やナナミちゃん達を守ることだけを考えていればいいよ。追っ手の相手は僕がする。……戦っていたい気分なんだ」
「ユインさん……」
「………………二度目、だ」
「……え?」
「これで、二度目だ。『誰か』の大切な女を、『誰か』もいないのに、看取る。そして…………。────これで、二度目、だ。…………許せない。僕は、僕が」
「ユインさ……。──あ、ユインさんっっ」
そうして、彼は。
自身へと向けた憤りをぽつり吐き出し、棍を構え、振り上げ。
篝火を手に追い縋る、ハイランド兵達を振り返り。
「付き合ってやるよ、とことん。…………一人残らず、僕が相手をしてやる」
怒りを湛えたような横顔を、カーラの琥珀色の瞳に焼き付け、消えた。