「………………何だ」

カーラが、何故か言葉を詰まらせ。

ユインが己の名を呼ぶ声が、静かな、三年程昔、良く聞かされた憶えのある、トーンだったから。

ビクトールは笑みを収めて、ふと立ち止まり。

二人の顔を見比べた。

「…………ワイン、美味しかった、って。……アナベル女史からの、伝言。──預かったんだ。確かに、伝えたよ」

「……ワイン……?」

「そう。ワイン。…………それだけ」

「………………他に何か、言ってたか?」

「……いいや」

「……そうか。────未だ、そういう嘘を吐くのは、下手だな、ユイン。……ま、何もねえってんなら、それ以上聴く気はねえよ」

「…………………敵わないね、そういう処」

「お前よりも、俺の方が長く生きてるから。その分くらいは、な。──……言っちまえ。アナベルも多分、怒らない。お前が抱えたって仕方ない。お前の荷物になるだけだ。……平気だ。多分、俺の荷物には、ならない」

どうと言うことのない言伝を伝える顔をして、アナベルの、短い言葉を伝えたユインを、じっとビクトールは見遣り、弟を見下ろすような目付きになって、彼は。

全てを悟ったのだろう、ユインを促した。

が、そうされても、ユインは直ぐには応えず、ふいっと、傭兵より眼差しを逸らし。

「ビクトールさん、あ、あの……。……ユインさ──

──いいよ。有り難う、カーラ」

不自然に声を張り上げて、割って入ったカーラを制し。

「何時か、一緒に。昔、約束したみたいに。ワインを飲む、それだけの為に、カナカンに行こう。…………そう言ってた」

改めて、ビクトールの瞳を捕らえて、彼は一息に言った。

「…………そうか。……悪かったな、ユイン。カーラも。……すまなかった。────さて。飯でも食うか。腹減ってるだろう? 無事の再会祝いも兼ねて、美味いもん食おうぜ。フリックと俺の二人だけじゃ、飯よりも酒になっちまっていけない」

ユインの口を介して語られた、アナベルの旅立ちの約束、それを受け止めて。

ビクトールは微笑んだまま、ユインとカーラへ詫びを告げると、さらっと声の調子を変え、もう直ぐ昼だしなー、と。

楽しそうに、己の腹を叩きながら、何時しか眼前に迫った、宿屋の扉を潜った。

傭兵に背中を押され、傾れ込むように入った宿屋で、フリックとも再会し、フリード・Yを紹介され、逆に、自分達のことや、リィナやアイリやボルガン達のことも紹介し終え、明日早朝、ボルガン以外の男は全員、ノースウィンドゥの廃村へ向かうことを決め、今宵くらいはと、のんびり過ごしたその宿屋での夜更け。

ふと、カーラは目を覚ました。

ミューズからここまでの旅は、かなりの強行軍だったから、疲れていない筈はないのに、何で起きちゃったんだろうと、首を捻りつつ彼は、ベッドより起き上がり、辺りを見回した。

──女は女同士、男は男同士で部屋は取ったから、起き出した彼の視界に映ったのは、幸せそうに眠っているボルガンと、もぬけの殻になっている、ユインが使っていた筈のベッドで、おや? とカーラは、もそもそベッドから抜け出し、足音を忍ばせ部屋を出て、階下へと降りた。

だが、もう客の姿も途絶えた一階の帳場前にも、ビクトール達ならもしかしたら未だ、と思えた酒場にも、ユインの姿はなく。

ユインがいないことが気になったカーラは、目も冴えてしまったことだしと、寝間着の上に上衣を羽織っただけの格好をしていると言うのに、宿の外へと出た。

そうっと、薄く玄関の扉を開け、顔だけを出すようにして、外を覗き込めば、宿屋の前の植え込みの柵に、服を着込んだユインが腰掛け、空を見ているのが判り。

「ユインさん? どうしたんですか?」

上衣の前を掻き合わせるようにしながら、彼はユインの傍へ寄った。

「……ああ。御免、もしかして起こしちゃった?」

見上げていた夜空から眼差しを外して、近付いて来た彼を、ユインは笑いながら迎えた。

「いえ、そういう訳じゃ。只、何となく目が覚めちゃって。そしたら、ユインさんいなかったら、一寸気になったんです」

「…………そっか。……僕も一寸、眠れなくってね。ぼんやりしてた」

ユインの笑みを横目で眺め、声を掛けたことも、近付いたことも、邪魔にはなっていないのかな、と。

カーラはそろそろと、ユインの隣に腰掛ける。

「………………あの、その…………」

「ん?」

「……えっと、そのぅ…………」

「ひょっとして、僕のこと心配してくれてる? ──有り難う。僕は平気だよ? カーラ」

「なら、いいんですけど……」

「何か、気になるの?」

「……ユインさん、ビクトールさんに全部、言わなかったから……。大丈夫かな、って……。────あ、すみません。あ、あの……烏滸がましい、ですよね……」

傍らの人の、顔色を窺うようにしながらカーラは、ぽつぽつ、呟いた。

「……ああ、あれ。……言わないでくれって言われたことの、半分を。結局、白状しちゃったから。残り半分くらいはね。…………それくらい、僕が抱えるよ。でないと、ビクトールにも、アナベル女史にも申し訳が立たない。……本当に、有り難う、カーラ。烏滸がましいだなんて、そんなことないよ?」

小さな呟きを聞いて、ふわり、ユインは、それまでとは風合いの違う微笑みを口許に浮かべた。

「でも……。ユインさんはそれ、抱えることに……」

「いいんだよ。せめて……って、そう思うからさ。伝えることはあるかと、彼女に訊いたのは僕だ。僕が言い出したことなんだから。僕自身で責任取らなきゃ。──僕は、カーラがそう想ってくれてるだけで、充分」

「…………そうですか……? ユインさん、二度目だ、って、そう言ってたから……。もしも、色々思い出したりとか、アナベルさんのことと想ったりとかして、ユインさんがベッド抜け出したんなら、お喋りくらい、一緒にしようかな、って……。そう思ったんですけど……」

その時のユインの微笑みが、哀し気に見えて、こうしていても、全く慰めにはならないのかと、カーラは視線を漂わせた。

「そうなんだ?」

「……はい……」

「………………じゃあ、カーラ。少し、甘えてもいい? 昔話、聞いてくれる?」

そんな風にカーラが俯けば、ユインは又、色の違う笑み──哀し気なそれから、安堵のような笑みに移し替えたそれを湛え。

「え? ええ」

「……昔。僕の目の前で、こと切れた女性がいてね。……彼女は『それ』を、伝えてくれとも、伝えるなとも言わなかったけれど。遺言、のように。僕に言ったんだ。『あの人の優しさが、慰めだった』って。『傍にいてくれたから、幸せだった』って。逢いたかった。愛してると告げて、将来を誓い合いたかった……って。そう言ったんだ、その人。そんな夢みたいなこと、考えちゃいけないのに……ともね。言った。────僕はね」

「……はい」

「その女性の『あの人』に。彼女の、遺言のような言葉を、半分しか伝えなかった。傍にいてくれたから幸せだった、そこから先を、伝えなかった。……『あの人』の、どうしようもなく重たい荷物になるような気がしてね。僕が背負えば、いいか……って。そう思ってさ」

…………そう、彼は。

『一度目』の話を、語り出した。

「彼女から『あの人』への。アナベルからビクトールへの。『愛してる』、って言葉。……伝えた方が、いいのかも知れないけど。僕の口からそれを語られても、却って辛いだけなのかなと想うし。彼等や彼女等の、挟持を傷付けそうで。言い出せなくてさ。…………御免ね。代わりに、カーラに話しちゃった」

「………………ユインさん」

「何?」

「……あの。教えて下さい。彼女の『あの人』の、名前」

昔語りを楽しむ風に、ユインが語ったそれを聞き終えて、カーラは、意を決したように、ユインへ向き直った。

「……………………どうして」

「僕がそれを知れば、ユインさん、少しは荷物、軽くなるかと、そう思って……」

「カーラ。……君が、僕の荷物を持つ手伝いなんて、する必要はないんだよ? そんな覚悟、君には要らないだろう?」

自分の瞳を覗き込みながらのカーラの決意に、ユインは目を丸くする。

「でも、僕でもそれくらいなら……。と言うか……それくらいのことしか、僕には出来ないから、せめて、って。助けて貰ってからずっと、良くして貰ってるユインさんに、僕が何か返せるなら、って……そう思ったんですけど……駄目ですか……?」

すればカーラの姿勢は、ユインに縋るような形になって。

「…………いいの? 他人の秘密を聞くことは、その他人の中にも自分の中にも、引き返せない部分を持つってことだよ?」

「……いいんです。それが、僕に出来ることだって言うなら」

「………………フリック」

「……え?」

「『彼女』の『あの人』は、フリック。……僕はね。ビクトールのことを愛していた女性と、フリックのことを愛していた女性と、二人。二度。看取ったんだよ」

「……そう、だったんですか…………」

「うん。…………御免、カーラ。ホントに、本気で甘えた」

──縋るようにして来た、弟のような少年の体を抱いて。

冷え始めている、寝間着姿の肩を、温めるように包んで。

「ありがと、カーラ……」

耳許で、小さく、ユインはカーラへ囁いた。