ラダトの街から川を船で下って、バナーという名前の小村から峠道へ分け入り、山を一つ越えれば、トラン共和国との国境へ辿り着けることくらい、知っている、と。
ユインもシーナもルックも、腹の奥底の方では思っていたけれど、そんなこと、素知らぬ振りをして、彼等は、ラダトの街が故郷のフリードを先導に、ラダトを経由して、川を下り、バナー村へと向かった。
──遠く、ハイランド皇国某所を水源に、デュナン地方を抜け、トラン湖の更に先、海へと注ぐその川辺で、細々と漁をしつつ生計を立てている人々の住まうバナー村は、本当に小さく、デュナンの人々にも、トランの人々にも、果たしてどちらの国に属しているのかすら判らないような片田舎だ。
それでも時折、行き過ぎる旅人はその村を訪れるから、峠を越える数少ない旅人の為の、こじんまりとした宿屋もあり、俗世を忘れる為に滞在するには最適そうだと思いながらカーラ達は、村で唯一の宿にて、一晩を過ごすことに決めた。
バナー村を起点に始まる峠道は、険しいことで有名で、女子供は余り通りたがらぬくらい高低差も激しく、断崖絶壁と言えるような崖道に、粗末な縄梯子のみが渡されている箇所すらあり、大人の足でも、朝食を摂って直ぐに出立して、やっと、午後のお茶時にはトラン国境の関所に辿り着ける程度の距離もあるから、バナーに辿り着くまでに、午後になってしまった今日ではなく、明日にと、彼等そう決め、その夜は、床に付いた。
そうして、一晩をバナー村で過ごした翌朝。
昨夜の夕食は、素朴ではあったけれど、獲れたての新鮮な魚がとても美味しかった献立だったから、朝食も楽しみ、と、起き出したカーラが支度を整えるよりも早く。
宿屋の入口で、騒ぎが起こった。
帳場よりも少し離れた客室まで届いて来たその騒ぎに、何事かと、支度もそこそこに彼等が駆け付ければ、宿屋の者達が、近所の住民達と、何やら深刻そうな顔で話し合っている姿がそこにはあって。
「…………あの、どうかしました……?」
元来から人の良い性格をしているカーラは、つい、その騒ぎの輪の中に、自ら加わった。
「ああ、すみません、お客様。こんなに朝早くから、お騒がせしてしまって……」
居並ぶ大人達の間から、ひょこり、彼が顔を覗かせたら、宿屋の主が、申し訳なさそうに彼を見遣り。
「その……、実は。コウ──家の息子の姿が、見えないんですよ。鶏に餌やって来るって、朝一番に裏の畑へ出てったっきり、何処にも姿がなくって……」
主は心底困り果てたように、カーラ達へと事情を語った。
鶏に餌をやりに行ったまま、末の息子のコウが帰って来なくて、辺りを捜してみても何処にもいない、最近、バナーの峠には、人攫いをする山賊が出るとの噂だから、もしかしたら……、と。
主は、そんな事情を。
「……朝っぱらから人攫いが出たんだとしたら、随分と良い度胸してる連中だなとは思うけど……、『仕事帰り』の駄賃って奴かもね」
と、主人の話を聞いて、有り得ないことでもないかもと、ぽつり、ユインが言った。
「だったら、こんな風に悠長にしてる場合じゃないですよね。コウ君、でしたっけ。コウ君のこと捜すの、僕達も手伝いましょうよ。人攫いなんかに遭っちゃったんだったら……」
「けど、お客様にそんなことまでして頂く訳には……。それに、コウの奴捜す為には、バナーの峠へ入らないとなりませんし」
物騒な世の中だからねえ、と、何処かのんびりした口調を取ったユインとは違い、血相を変え、手伝います! と申し出たカーラへ、主人は申し訳なさそうにしてみせたが。
「平気です。どのみち僕達、今日峠越えするつもりでしたし。このまま出発して、コウ君見付けたら、戻って来ますね」
彼は、コウ少年を捜すと決め。
「……やれやれ……。カーラと付き合ってると、忙しないね」
「……まー、仕方ないんじゃないの? あの性格の盟主様じゃ」
「ほら、行くよっっ。コウ君捜さないとっっ! ユインさんも、フリードさんも、良いですよねっ?」
ルックとシーナの二人が、小声でブツブツ言い合うのを遮るようにして、残りの二人を振り返りつつ、客室へと取って返し、手早く荷物をまとめ、そのまま、急ぎバナー村を発った。
薮の中、木立の中、極稀に擦れ違う旅人、そんなもの全てを気にしながら、急ぎ足でバナーの峠を進んだが、もう間もなくトラン共和国の関所に辿り着く、と言った頃になっても、カーラ達が、噂の山賊も、山賊に連れ去られたかも知れないコウ少年の姿も、見掛けることはなかった。
人の行き来は少ないとの評判通り、出会す魔物や獣の数はかなり多かったけれど、その峠道はやけに静かで、もしかしたら今頃コウ君は、ひょっこり、自分の家に戻っているんじゃないかという気持ち半分、自分達の探し方が悪かったのかも知れないという気持ち半分、になって、カーラは、目的のトラン共和国を目の前にしながら、バナー村まで引き返したそうな素振りを見せた。
彼のその素振りは、ユイン達の目には明らか過ぎて、何時、カーラが立ち止まって、バナー村まで戻ろうと言い出すかと、四名の内半数は、戦々恐々としていたが。
幸か不幸か、コウ君のことが心配だから、バナーまで戻る、と彼が言い出そうとした直前、緩い弧を描いている道の先の、少しばかり開けた場所で、彼等は、数名の山賊と鉢合った。
目の前に現れた男達の、何処からどう見ても、食うに困った山賊、といった風体に、きっと、との確信を持った彼等に、コウのことを問い質された山賊達は、最初の内、高圧的な態度を取ったのだが。
「…………あ。こいつ…………」
押し問答をしていた最中、男達の一人が、ぽつっと、ユインの顔をじっと眺めながら、ふっと小首を傾げ、その果て、何かを思い出したように呟いて、頭目らしい男の服の裾を引いた。
「何だってんだ、うざってぇ奴だな」
「それが。……お頭、あいつ……──」
服の裾を掴む、との、子供じみた行為で注意を引いて来た手下に、お頭と呼ばれた男は眉尻を吊り上げ、不機嫌そうにするも、ぼそぼそと、手下の彼が呟いたことに、さっと顔色を変え。
「…………ゆ、夕べはその、仕事が上手くいなかったんだ。だから、あの、実入りがなくて。戻り掛け、こんなガキでも攫って売り飛ばしゃあ金になるんじゃねえかって、出来心で……。……だから、な? 勘弁してくれっっ」
言い訳めいたことを、ユインに向かって訴えた頭目は、後退りをし始めていた部下達と共に、ぱっと踵を返すや否や、有らぬ方へと駆け出した。
「……え? あっ! 待って、コウ君はっ!?」
何故、ユインの顔を見た途端、男達がそんな風になったのか、カーラも気にしないではなかったが、それよりも今はコウの方が先だと、彼は声のみで男達を追った。
「この先に捨てて来たっっ。魔物に襲われて、邪魔だったから……」
カーラの問い掛けに、男達は首だけを巡らせながら、駆ける足は止めず、そう言い捨てた。
「…………ユインさん、あの人達とお知り合いなんですか……?」
唯、今はもう何も彼も全て、正直に白状するしかない、の勢いで、自分達の行いを叫びながらも、脱兎の如く去って行く男達の背を見送り、首を捻って不思議そうに、カーラはユインを見上げた。
「いいや。あの彼等とは初対面だね。どうして?」
「その……。ユインさんのこと、知ってるような感じだったから……」
「……気の所為だよ、多分。それよりも、コウ君助けに行かないと」
「あ、そうでしたねっっ」
が、どれだけ訝し気に見詰めても、ユインの態度は普段のそれと微塵も変わらなく、コウ君を、と急くような調子で言われたカーラは、あっ! と走り出した。
「コウ君っ!」
──山賊達が言い残して行った通り、立ち止まっていた場所から少々トラン側の、先程の場所よりももう少し広く開けた場所にて、彼はコウを見付け、その場所の中央に倒れている少年へ、高く叫びを送った。
だがコウの背後には、十尺はありそうな大きさの、毒々しい緑色をした芋虫の化け物のような魔物がいた為、彼に送れたのは叫びのみで。
「大丈夫? コウ君っっ」
カーラはその場で多々良を踏み、慌てた素振りで腰のトンファー構え、再度、少年の名を叫んだ。
「見た処、怪我はなさそうなのに、反応がないね。毒でも持ってるかな、あの芋虫」
「……そうなんじゃないの? 見るからに、そんな色」
「毒ねえ。綺麗なおねーさんの毒は、貰いに行きたいくらいだけどなー」
幾度となく、カーラが少年へと呼び掛けても、呻き声一つ返らぬのを見て、それぞれ武器を構えつつも、ユインとルックとシーナは、余り真摯には聞こえぬやり取りを交わし。
「参りましょう、カーラ殿っっ」
超が付く程誠実な性格をしているフリードのみが、その血相を変え、カーラよりも先んじて、魔物に斬り掛かった。
「…………あ。急いては事を何とやらって言うのに」
腕に覚えがない訳ではない故だろう、気合いの声を上げながら、巨大な魔物に挑み始めたフリードを横目で見て、ポツリ、ユインは洩らした。
何処までも、真摯には聞こえぬ調子で。
……が、彼とて、本当に不真面目な心構えでいた訳ではなく、この程度の魔物なら、間違いなく何とかなる、との自信がさせる、それは見掛けだけの態度で。
張り切り過ぎると疲れるのに……とか何とか、相変わらずのことを呟きながらユインは、駆け出しながら棍を構え、魔物の鼻先で軽く跳躍しながら、振り被った棍の先を叩き込んだ。
「こーゆーのも、久し振りにやると、刺激があっていいよ……なっっ」
「楽しむのは勝手だけど、邪魔だよ、あんた」
そして、戦い始めたユインに倣うように、シーナは細身の剣を、ルックは唱え終えた魔法を、それぞれ、『巨大な芋虫』へと注ぎ。
……大した時も要せず、彼等は魔物に、断末魔にも聞こえる雄叫びを放たせさせた。
「思いの外、早く片付きましたね。……そうですよね、ユインさんいて、ルックいて、シーナさんもフリードさんもいるんだし。……ああ、良かった……」
想像よりも手応え無く、魔物がのたうち回り始めたのを見て、大きさが大きさだったから、少し焦っちゃったけど、気負うことなんてなかったなー、と、カーラはホッと息を付き、改めて、コウの傍へと駆け寄る。
「コウ君っ。大丈夫? コウ君」
「……ああ、やっぱり毒か何か、吸ったみたいだね」
「毒、なあ……。毒ったって……。この場所じゃどうにも……」
「どうもこうも。取り敢えず、トラン目指すしかないだろう? バナーよりも、トランの方が近いんだから」
「そうですね、あの村よりもトランの方が、お医者様は探せそうです」
彼と一緒になって、ユイン達も、抱き起こされたコウを取り囲んだ。
「あ、そうか。グレッグミンスターまで行ければ、リュウカン先生がいるっけ」
カーラの腕の中で、微かな呻き声を上げ、酷く苦しそうにしているコウを見遣りながら、彼等は手早く話をまとめ、トランへと急ぐこととし、何とかグレッグミンスターの街まで行ければ、心当たりの医者がいる、とシーナが言い出した時。
「リュウカンせ…………──。──…………ん……?」
そのシーナに、何やらを言い掛けたユインが急に顔色を変えて、ばっと振り返った。
「…………こいつ……、息絶えてない……処か、脱皮してる……?」
「はい? 脱皮? 脱皮って…………。──えええええっ!?」
棍を構え直して振り返ったユインに釣られ、そちらに目をやって、カーラは思わず馬鹿面を晒した。
「蛾じゃあるまいし……」
そうして彼はボソっと、感想めいた一言を呟く。
────ユインに倣ってカーラが見遣ったその先では、倒した、と確信していた筈の魔物が、息絶える兆候だと思っていた蠢きを止めることなく身を捩り続け、やがて、繭玉を破るように、青虫の如くだった自身の体を破って、今度は、蛾そっくりの姿に変身してみせる、という様が展開されており。
予想外の出来事へ、そんな風に呟いたカーラを筆頭に、全員が、毒気を抜かれてしまったかのように、ほんの一瞬呆然としたら、あ、と思う間もなく、激しい羽音を立てて宙へと舞い上がった『蛾』は、バサバサと、両の羽を羽ばたかせて、大量の鱗粉を送りつけて来た。
……魔物の羽を覆っていた、キラキラとした粉を避け切ることが出来ず、彼等は、深く吸い込んでしまう。
「……これ……。まさか、ホントに毒…………?」
──誰かがそう呻いた通り、その粉を身の内に取り入れてしまった途端、ぴりぴりと全身が痺れ始めて、手も足も上手く動かなくなり、視界さえも霞み始めたのに、彼等は気付いた。
そして、それに気付くと共に。
自分達と魔物の形勢が、酷く逆転してしまったのも、知った。