未だ五つになるかならないかの年頃に思える子供とは言え、コウに、生死の境を彷徨わせる程強い、蛾に良く似た魔物のそれは、ユインさえもが体を動かせなくなったくらい、強い毒性を持っていた。
ユイン同様、カーラも、ルックもシーナもフリードも、構えた得物を振り上げることも、詠唱を唱えることも、叶わなかった。
バサリと魔物が鱗粉を振り撒いた時、全員が咄嗟に、「このままでは……」と思ったそれは正しくて、思うように身動き取れなくなった彼等は、暫くの間、魔物に好き放題翻弄された。
段々と霞み始めた視界の中で、傷付いてく仲間達を捕らえ、せめて、輝く盾の紋章を……、とカーラは思ったけれど、薄れ掛けた視界のように、もう、思考も唇も、まともに動いてはくれず。
駄目なのかも……、と。
少なくともカーラは、そう思う間もなく、意識を失いそうになったが。
その時、彼の意に反して、何かに引っ張られたように、クイ……、と彼の右手が持ち上がった。
最初の内は力なく、だが徐々に、性急に持ち上がった彼の右手は、やがて、天を突かんばかりに高々と持ち上げられ、その刹那、一体何を呟いたのか、カーラ自身にも理解出来なかった不可思議な『呪』が、彼の唇からは洩れた。
────その段になってやっと、何とか意識が持ち直って来たカーラは、はっと辺りを見回して、傍らのユインが、己よりも一拍程度早く、同一のことをしているのに気付いた。
自身がそうであるように、何者かに操られる如く、促される如く、片方の瞳の色だけをなくし、右手を掲げながら某かを呟き終えたユインを、理解出来ない呪を唱えさせられつつ、じっと見守れば、それが外されたのをカーラでさえ見たことがない程、常にユインの右手を覆っている手袋の内側から、何やら、黒くて冥い、光のようなものが溢れ出し。
光は、『鎌』そっくりの、明確な形となって、一条の筋を引きながら、魔物へと走った。
……ユインの手から、光が走り終え、途端。
今度は、カーラの右手を覆う手袋の中から、緑柱石のそれのような光が溢れ、ユインより放たれた黒い光の後を追うように、それは、『盾』に良く似た形を取って、カーラの手の内より放たれ、魔物へと進みながら、光は『その身』を真っ二つに裂き、裂かれた片割れは魔物へ、もう片割れは傷付いた自分達へ、と『注がれた』。
「………………何……、これ…………」
──呆然と言葉を呟き、唯々、流れて行く光景をカーラが見守り続けていたら、彼の目の前で、黒い光の全てと、緑柱石の光の半分に『満たされた』魔物の姿は掻き消え、出来ることはもう、地に伏すのみ……となった筈の己達の体が、静かに、けれど瞬く間に、癒えて行くのを彼は知った。
…………そうして。
夥しい血すら流していた自分達が、凄まじい速さで回復して行くのを感じつつ、彼は。
恐らくは、自分とユインの二人だけに見えているのだろう微かな幻影が、『瞳の中』を激しく流れて行くのも見て。
「…………ユイン、さん……? これ、って…………?」
一体、何をどう告げて、何をどう問えば、何一つとして理解出来なかった自分にも、容易に飲み込める答えをユインがくれるかと。
窺うように、怖々。でも、期待して。
一歩、ユインの方へと近付いた。
「…………さ、あね……。────御免、カーラ。今起こったことは、僕にも良く判らないや」
そんなカーラへ、ユインから返った言葉は、酷く彼らしくない、儚い風にも見える笑みを湛えながらの、判らない、の一言。
「……そう……ですか…………。────僕、の、あれは……輝く盾の紋章の、何かだったんじゃないかな、って……そう思うんですけど……。でも、ユインさんの、あれは…………?」
なのに、気になって気になってどうしようもないことを、そろっとカーラは舌の根に乗せた。
「…………無事に済んだんだから。ぼさっと突っ立ってないで、トランに急いだ方がいいんじゃないの? あの子供、医者に診せた方がいいよ。僕達はすっかり元通りみたいだけど、あの子はそうじゃない」
すれば、カーラの内心に過り掛けた『何か』を、今だけでも、とルックが遮り。
「……あ、ああああ。そ、そうだよね。トラン……、トラン行かなきゃ! コウ君、お医者様に診せないと!」
その言葉に、はっと我に返った彼は、コウを抱き抱えたフリードを促しつつ、山道を走り出した。
生家ではないが、今現在の実家には当たるらしい、トラン共和国首都・グレッグミンスターの大統領府──グレッグミンスター城にシーナが飛び込んで、リュウカンという、名医と名高い医師を呼び出したのは、バナーの峠で彼等が経験した不可思議な出来事から、過ぎること数刻後だった。
──山道を走り、国境の関所の門を叩き事情を話して、早駆けの馬で仕立てた馬車で、国境の関所から北の関所までを駆け、そこから、尋常でない程速い──としかカーラには言えなかった──船を使ってトラン湖を横切り、シャサラザードという水上砦から、再び馬車を駆って、転移魔法でも使わない限り、これ以上は不可能だろう記録で、カーラ達はグレッグミンスターへと入った。
そして、そのまま城へと向かい、『勝手知ったる我が家』にて、シーナに奮闘して貰い、リュウカンを……、と相成ってより、一刻程。
…………カーラは、女官に通された控えの間で、シーナとルックとフリードの三人と共に、この国の初代大統領、レパントとの対面の時を待っていた。
「君は、君の仕事をしておいで。コウ君の方は僕が引き受ける」
……そう言って、リュウカンと一緒に、何処へとユインは消えてしまったから、今、彼はここにいない。
あれきり、シーナもルックも、余り口数は多くない。
生真面目な質のフリードは、緊張しているのか、先程から部屋をうろうろとしている。
故に、カーラも一人、長椅子の上で黙り込んでいるしかなくて。
口を噤んだまま、彼はつらつらと、バナーの峠からここに至るまでに起こった出来事を、思い起こしていた。
──蛾のような魔物が掻き消えた際に起こった出来事が、不思議で不思議で仕方なかった。
が、今はそれよりも、コウのことの方が先、と国境を目指してみれば、関所の詰め所から出て来た、国境警備隊々長のバルカスと名乗った男が、ユインを一目見て顔色を変えたから、不思議に思えて仕方ないことは増え、顔色を変えたバルカスに、バッと駆け寄ったシーナが、何やらを呟いた所為で、不思議で不思議でどうしようもないことは、三つにまで膨らんだ。
…………だから、カーラは。
ルックや、シーナや、あの、バルカスという警備隊長や。
もしかしたら、今はデュナンの城にいる、ビクトールやフリック達も、自分は知らないユインの何かを、知っているのではないか、と。
ユインはその何かを、ひたすらに、自分にのみ隠し続けているのではないか、と。
そんな疑問を抱えた。
疑問と共に、自分だけがそれを知らない、との、疎外感のようなものも感じた。
………………今はもう燃えてしまったあの森の出口で、突然現れた、異国の戦いの神様のようなユインに助けられた夜から今日まで、ずっと。
同盟軍の盟主となってからは、殊更。
実の兄のように慕い続けて、心の奥底で、常に頼りにし続けて、実際、実の弟のように可愛がって貰って、気が付けば何時しか、彼が傍にいてくれなければ自分は、同盟軍の盟主なんて務めていけない、とすら思う程、己は彼を、心の拠り所にして来たのに、自分は彼、ユインにとっては、只の気紛れで助けて、成り行きで親しくしていただけの『誰か』と、何一つ変わらないんじゃないか、と。
ビクトールやフリックや、シーナやルック達の中では公然らしいことも、隠し通されてしまう程度の存在でしかなかったのか、と。
そんなことをぼんやり、黙りこくったカーラは、一人考えた。
そして、そんなことを考えていたら、無性に、ハイランドに帰ってしまったジョウイに会いたくなって、今この場で、泣き出してしまいたいなあ……と、そんな思いすら、彼の脳裏を一瞬、掠めたが。
「お待たせ致しました。同盟軍盟主、カーラ様。レパント大統領が、お目に掛かるそうです」
ユインにとって自分が、それだけの存在でしかなかった、たったそれだけのことに、何故だか涙が溢れそうになる、と唇を噛み締めた瞬間、控えの間の扉が叩かれ、姿見せた女官に呼ばれ。
「……はい」
ツン……と、鼻の奥を突いた涙を飲み込んで、彼は立ち上がった。