ルカ・ブライトとの一戦を終えて、一週間──ユインがトランの英雄だとカーラが知ってより、約一ヶ月が過ぎた。
それでも未だ、カーラとユインの仲は相変わらずで、もう、二度と修復出来ない擦れ違いを終えてしまったかのように、トランへ赴く以前の日々とは打って変わって、必要最低限以上の言葉を交わさなくなっていて、他人の機微には余り興味を持たぬ者達ですら、あの二人は一体どうしたんだ、あの年頃には良くありがちな、盛大な喧嘩でもしたのかと、二人の今に、戸惑いのような興味を向け始めた。
だが、そんな頃。
ラダトの街付近まで斤候に赴いた、同盟軍の将軍リドリー率いる部隊が、ハイランド軍の待ち伏せに遭い、予定にはなかった戦を、同盟軍は行うことになった。
予想外に始まったそれは、切迫した事情を抱えるものだったけれど、姿見せたルカさえも振り切り、ハイランド軍に全滅させ掛けられていたリドリーの部隊を、何とかではあったが、救うことは叶い。
…………が、引き上げた本拠地にて、あの様子では、今日明日中にももしかすると、ルカ・ブライト自ら、この本拠地へ攻め上がって来るかも知れない、それに一体、どう太刀打ちしたら良いのだろう、と、本拠地二階の議場にて、要人達が揃い踏みし、顔付き合わせて悩んでいた処へ、衛兵の一人がやって来て、先程ここを訪れた男が、シュウ軍師へ渡して欲しいと手紙を置いて行った、と報告して来た。
「レオン・シルバーバーグ…………?」
その手紙を受け取り裏を見て、差出人の名を改め、シュウが唸り。
「レオン……?」
思わず洩らされたその名に、ビクトールやフリック、と言った、トラン解放戦争を知る者達は皆、三年前は自分達の仲間だった軍師の名を、口々に繰り返した。
無論、ユインも。
──言うまでもなく、彼等が揃ってその名を呟いたのは、かつては己達の仲間だった、が今は、敵国ハイランドに与しているあの軍師が、シュウに宛てて書状を寄越して来るなんて、一体何事なんだろうと、そんな疑問を覚えたが為だったけれど、ユインがトランの英雄だと知ってから、改めて、トラン解放戦争の歴史その他を、図書館にて調べたらしいカーラは、僅か、顔を歪めるようにして、傍の席に座っているユインより、そっと目線を逸らした。
…………彼は、未だ。
例の、『強い疎外感』を、感じたままであるようだった。
「…………何て書いてあるんですか。ハイランドの軍師が、シュウさんに、何の用事が……」
しかし彼は、何かを苦しんでいるようにユインを視界から追い出した、その折の表情を、何とか一瞬のみで消し、自分は盟主なんだから、こんな顔してる場合じゃないと、立ったままのシュウを見上げた。
「……用事がある故の書状ではないようです。……これは一言で言うなら、密告状ですね。──今宵、ルカ・ブライトが、この城に夜襲を掛けるつもりでいる、と。……そう書かれています」
それを受けてシュウは、手の中の書状へさっと目を落とし。
「夜襲…………? ここへ?」
「そうです、ここへ。でも、そうだと言うなら…………。──カーラ殿、戦のご準備を。……レオン・シルバーバーグは、我が師、マッシュ・シルバーバーグの師でした。私は、あの男のことを良く知っています。ですから、これが罠ではないと、私には解ります。……どの道、これを信じるしか、我々には道がありません」
「……本当に?」
「……ええ、本当に。…………カーラ殿。これが、我々があの狂皇子に勝つ、最後の好機です。この戦に負ければ、それは、この戦争に負ける、ということです。お支度を。──皆の者も、支度を。支度を整えたら、一刻後に、もう一度ここへ。そこで、今宵の策を伝える」
シュウは先ず、じっとカーラを見詰め、次いで、他の者達をも見渡し、普段よりも、僅かばかり声高に、戦の支度を、と告げた。
「………………あの、ユインさん……」
──城内全てが慌ただしい雰囲気に包まれ、それぞれがそれぞれ、戦の為の支度に奔走し始めて暫し。
所用など、済ませたというような風情で廊下を歩いていたユインを、小さな声で、カーラは呼び止めた。
「……何?」
歩き続けるユインを、己へと振り返させるつもりなど、本当はないのではないかと、そんな風にさえ思える、小さくて控え目な声で、俯いたまま呼び止めて来たカーラへ、一ヶ月前と何ら変わらぬ態度で、ユインは首巡らせ。
「あの……。さっき、シュウさんに呼ばれて、小部隊を三つ程、編成して欲しいって、そう言われたんです。……ですから、あの……──」
益々、カーラは俯きを深くして、ぼそぼそと言った。
「一緒に、戦って欲しい?」
「…………はい」
「……御免、カーラ。それは、出来ない」
「どうして、ですか……?」
「今夜の戦いの終わりが、この戦争の終わりになるかどうか、それは判らないけれど。少なくとも今夜の戦いが終われば、この戦争に大きな区切りは付く。……そんな大事な戦いに、トランの英雄だってことが知れてしまった僕が、大手を振って参加する訳にはね。……それは一寸、具合が悪いだろう? 『同盟軍』のみの力で、ルカ・ブライトを討ち倒したのだという、絶対の体裁がないとさ。だから僕は、後方に廻るよ。さっき、シュウ軍師と打ち合わせして了承も得た。それに、ルカの率いる部隊だけが、ここを目指すとは限らないしね」
聞き取り辛い声で、共に、同じ部隊で戦って欲しいとカーラが乞うても、ユインは、それは受けられない、と首を振った。
「…………そう、ですか。……判りました」
「うん。そういう訳だから、御免ね。又、後で。──この戦が終わったら、君の部屋へ行くよ。さよならの挨拶もしなきゃならないし」
「……さよならの、挨拶……?」
「…………ああ。──負けるつもりなんてないだろう? 勝つんだろう? 勝たなくてはいけないし。……そして勝てば、今も言ったように、この戦争には区切りが付く。同盟軍は、ルカ・ブライトを倒した、という事実を手に入れることも出来る。……だからもう、僕がここにいても。…………僕が、只の『ユイン・マクドール』だったらね。未だ、ここで戦えたけれど。僕はどうしたって、トランの英雄だから」
そうして、ユインは。
まるで、物の次いでのように、今夜の戦いが終われば、お別れだ、と、少々あっけらかん過ぎている程さらりと、カーラに向けて語った。
日が落ちて、夜も更け、決戦の為の全ての支度を整え、煌々と灯りが灯された、本拠地を遠く背に負って、森影に潜みつつ。
この戦いが終われば、ユインさんとは『さようなら』なんだ……、と、カーラはぼんやりと思った。
──もう一ヶ月近く、上手く接せられないけれど、決して、あの人のことが嫌いになった訳じゃないのに、これが終われば、あの人は何処かに行ってしまう。僕を置いて。
だと言うなら、こんな戦い、始まらなければ良い、そう思うけれど、僕は、同盟軍の盟主だから。
そしてこの戦いに、勝たなくちゃいけないから。
僕は、始まらなければ良い戦いを、それでもしなくちゃならなくて、終わらせなくちゃならなくて…………、と。
カーラは、唯、ぼんやり。
一方。
本拠地の灯りさえ届かぬ程の、森の深部で。
僅かに率いて来た兵士と共に、木立に紛れていたユインは、『…………ああ、いる……』、それを感じて夜空を見上げた。
────遠くに、カーラの紋章を感じる。
そして、より遠くに。けれど『近く』に。
もう一つ、紋章がいる、と。
そして、彼は。
…………あの時、後悔を覚えなければ。覚えたあの後悔を、後悔と受け取らなければ。
こうは、ならなかったのに。こんな風に、なることはなかったのに。
…………御免ね、カーラ。……と。
夜空を見上げ、音せぬまま呟いた。