「…………あ。御免、カーラ。先部屋に戻ってて? ビクトールに一つ、言付けておくの、うっかり忘れてた」
──その日の、夜半近く。
食事に入浴に……と、普段通り日常を終えた後、未だ時間も早いしと、ユインにカーラが付き合う形で、レオナの酒場で油を売って、でも、もういい加減寝ようか、そんな風に言い合い、一階ロビーの階段を、二人揃って昇り掛けた時。
酒場で鉢合わせた腐れ縁コンビをからかうことに専念し過ぎたのか、肝心の一言を言い置くのを忘れたと、そうユインが言い始め、引き返したから。
「はい、じゃあ、先行ってますね」
言われた通りカーラは、軽く恋人へと手を振って、一人自室へと戻った。
『えれべーたー』を使って五階まで上がり、それを降りて直ぐの所にある、ナナミの部屋へ顔だけを覗かせ、お休み、と告げ、多分、直ぐにユインさん来るだろうけど、どうしようかな……、と思いながら彼は、今夜は何の話をしようかと、少しばかりうきうきした足取りで、自室の扉を潜った。
──カーラが同盟軍の盟主になってから今までずっと、カーラは盟主の為の部屋で、ユインは兵舎の己の部屋で、それぞれ休むのが当たり前のことになっていて、恋人同士になった今でも、それは変わらないけれど、想いを告げ合ってからは毎晩、カーラがどうしようもなく眠くなるまで、ユインはカーラの部屋で過ごしていたから、今晩も、又……と、彼はそれを楽しみにしていた。
手を繋いだりキスをしたりする以外、何をする訳でもなくて、唯、眠くなるまでお喋りをして……だなんて夜の過ごし方は、少しばかり子供じみてるかもと、ユインは固よりカーラとて、思わないではないけれど、焦る必要はないから、関係なんて、少しずつ深めて行けばいいよねと、今の処彼は、二人だけの語らいの時間を、一番の宝物にしていた。
だから、部屋へと入った彼の足取りは、とても軽くて。
「今の内に着替えちゃおう」
いそいそと、ベッドの脇に寄り、枕元の寝間着を取り上げた。
「…………え?」
だが、不意に、ゾクリとする何かを背中に感じて、彼は、着替えようとしていた手を止め、寝間着を掴んだまま、入口の方を振り返った。
「……お前か?」
何処となく、緩慢な動作で彼が身を捩れば、目隠し代わりのカーテンの影から、ゆらりと人影が現れ。
「……お前って…………?」
「お前が。盟主の、カーラか?」
若い女の形を取った影は、何を言われているのか判らないような顔をしたカーラへ、一言一言、区切るように言って。
「え? 貴方、誰っ?」
「なら、私はお前の命を貰う」
名を名乗らぬ彼女は、何時の間やら手にした皮鞭で、ピシリと床を打った。
「ちょ……。命を貰う、とか言われて、もっっ!」
床を打った鞭の先は、強く跳ね返ってそののまカーラを襲って来たから、慌てて彼は、鋭く撓るその先端から逃れ、腰のトンファーを抜く。
「……ハイランドの、人……?」
──何を言っても無駄だろうし、何を訊いても答えぬだろうと、判ってはいたけれど。
得物を構えた彼は、それを尋ねた。
「どうでもいい。関係ない」
「…………そう」
「ああ、そうだ。お前が死ねば、この下らぬ戦争が終わる。だから私はお前を殺す。それだけだ」
すれば案の定、彼女はカーラの望む答えを返そうはせず、が、一つだけ、お前が死ねば、と、それだけは告げた。
「そんなこと言われたって、僕は…………」
「うるさいっ。問答は無用だと────」
「────うるさい? うるさいのは、そっちだろう?」
…………彼女が、吐き捨てるように言ったことに、刹那カーラが言い淀むように答えれば、彼女は又、吐き捨てるように何かを言い掛け、そこへ、カーラにも、侵入者の彼女も悟られぬ内に、忍び入って来ていたユインが、ふっ……と、彼女の背後より声音を発し。
「……なっ……!?」
「遅いよ?」
突然湧いた気配と声に驚き、振り返ろうとした彼女から、どうやったのかユインは、うっすら笑み浮かべつつ、するりと皮鞭を取り上げ、呆然となった彼女を、そのまま打ち据えるように、床へと捩じ伏せた。
「女性にこーゆーことするの、趣味じゃないけど。殺されなかっただけ、マシだと思って? 優しい方だと思うよ? これでも。この城に侵入して、カーラ襲って、命を貰う、なんてほざいたんだから、普通なら八つ裂きにされても文句言えないよね?」
そして一層、薄ら寒い笑みを深めて。
「カーラ、大丈夫?」
「……あ、は、はい」
「なら、誰か呼んで来てくれるかな」
「は、はい!」
カーラに、人を呼びに走らせると、彼は。
「残念ながら、僕やカーラはお相手出来ないけれど、多分、他の人達が構ってくれると思うから。楽しんでって?」
すっ……と、その表情を変え、声の音さえも変え、見下すように、彼女へ言った。
ユインに促され、慌てて部屋を飛び出て行ったカーラが呼んで来たのは、ビクトールやフリックや、廊下で偶然彼等と行き会い立ち話をしていたツァイ、それから、騒ぎを聞き付け自室から出て来たシュウの四名だった。
彼の語った事情を聞き、焦った顔付きでやって来た大人達は、ユインに取り押さえられたままの賊を見て、あからさまにホッとし、後はこっちでやるからと、侵入者の彼女を連れて、地下牢へと降りて行った。
「怪我はないよね? ……良かった、無事で」
一応は騒ぎが落ち着き、人々の気配が消えて、狐に摘まれたような表情をしていたカーラへ、ユインは近寄る。
「あ、はい。僕は平気ですけど……」
「……何か?」
「…………あの人やっぱり、その……、ハイランドの手先……ですよね?」
「多分。もしかしたら、ハルモニア絡みなのかも知れないけれど、十中八九、ハイランド側の人間だと思うよ。彼女のしていた格好は、ティントの西、グラスランドにある、カラヤクランの者達の民族衣装みたいだったから、彼女が本当にカラヤ族の者なら、味方をするならハイランドだろうね。あそこは随分と長い間、ティントと国境紛争続けてるから」
「ティントと盟約を結んだ同盟軍は、そのままカラヤの敵、……ってことですか…………」
「うん。残念だけど、そうなる。それが多分、グラスランド側の理屈じゃないかな」
「…………そうですか……」
心配そうな声音で掛けられた声に、振り返りつつカーラは答え、恐らくはそういうことだろう、とのユインの言葉に、若干肩を落とした。
「元気出して。……盟主や軍主である者の、税みたいなものだからね、こういうことって。…………カーラの所為じゃない。カーラに罪があるから、彼女はああ言ったんじゃないよ。……それも、カーラには辛いことだとは思うけど、ハイランドの者が、同盟軍盟主である君が死ねば、この戦争は終わると思うように。同盟軍の者は、ハイランド皇王であるジョウイ君が死ねば、この戦争は終わると思う、それと一緒。誰が悪い訳じゃないよ。何が悪い訳でもない。強いて言うなら、悪いのは戦争。互い、盟主や皇王である以上、取らなくてはならない責任って言うのはあるけれど。……そんなに、何も彼も、背負わなくたっていいって」
これまでに降り掛かって来た様々なこと、今宵降り掛かって来たこと、これから先、降り掛かって来るだろうこと、それら全てに対して、肩を落としたのだろうカーラを、慰めるようにユインは言った。
「判ってる……んです。判ってはいます。或る程度は、仕方のないことだ、……って。…………但……、僕は未だ、盟主としては情けないばっかりだから、今夜みたいなことがあっても、こうしてうじうじするしか出来ないのに、ジョウイはちゃんと、……ハイランドの皇王で、色々考えてて、覚悟もあるんだろうな……、とか……、でも、どうしても僕は、ジョウイをハイランドの皇王として見られない部分持ってるから、それが心の何処かで凄く悲しくって……、とか……思っちゃって…………。……馬鹿ですよね……。駄目ですよね、こんなんじゃ…………」
すればカーラは、益々、その肩を落とし。
「……悩まない、躊躇わない、悔やまない。……そんなことばかりが出来る人間なんて、いないよ。誰だって、悩むし、躊躇うし、悔やむし。その果てで、泣いて悲しむよ。……大丈夫、カーラだけじゃない。カーラはそれを、余り人には見せられない立場にいるだけ。……悩んで、躊躇って、悔やんで、泣いて、そうやって行くのが人だし、僕だってそうして来たし、その分きっと何時か必ず、泣いた数に相応しいだけ、幸せが来るから。ね? 元気出して。落ち込まない、落ち込まない。軽く行かなきゃ、人生楽しくないよ?」
より一層、明るい声をユインは出して、そっとカーラを抱き締め。
「ね。カーラ」
「はい?」
「今晩、ここに泊まってっていい?」
悪戯を思い付いた子供のような素振りで、カーラにねだった。
「それは……構いません、けど……」
「ほら、今夜はあんなことあったから。護衛兼ねて。僕も、カーラのこと一人にしとくの不安だし。…………あ。もしかして、何か違うことでも考えた?」
「えっっっ!? ち、違いますっっ、そんなんじゃなくってっ! えぇぇっと……。えっと……。そんなことして貰ったら、ユ、ユインさんに迷惑なんじゃないかなとかっ! これ以上ユインさんに慰めて貰ったら、僕調子に乗って、もっと愚痴とか言っちゃいそうだから、嫌だなとか! そういうことを思っただけで! 別に、違うこととか、考えた訳じゃ!」
何処となく楽し気に、部屋に泊めてとユインが言えば、『違うことでも……』の科白から、咄嗟に何かを思ってしまったらしいカーラは、ほんのり頬を染めて、慌てふためき否定を始めた。
「…………カーラ。僕は只、何か違うことでも? って、そう言っただけだよ? ……なのにカーラは、顔を赤くするようなこと、想像したの?」
そんな彼をからかう為の、ニヤリとした笑みをユインは拵え。
「そ、そうじゃなくって……。だから、僕が最初に言い淀んだのは、その……っ」
益々、カーラは顔を真っ赤に染め。
「御免ね? 一寸苛めてみただけ。冗談。唯僕が、カーラを一人にしときたくないから、それだけの理由で、泊めてって言っただけ。…………でも、僕とカーラだって、一応恋人同士なんだから。そーゆーこと思っちゃっても、別に不思議じゃない処か、そんなことの一つも想像して貰えないと、逆に落ち込むけどね、僕は」
あんなことが遭った夜、唯君の傍にいたいだけだから、と、柔らかく言って。
「……もう、遅いから。寝ようか? ……一緒に、ベッド潜り込んでもいいよね?」
するりと彼は、カーラの手を取った。