「……嘘……。……ユインさんっっ。ユインさんってばっっ! ここ、開けて下さいっっ!」

──後ろ手で閉ざした扉の向こうで、厚いそこを叩きながら、カーラがそんな風に叫んでいるのは、充分過ぎる程に聞こえていたが、扉を閉ざした手で、そのまま強く把手を掴んで、ユインはそこを、開けさせなかった。

そうして暫く、扉を開こうとするカーラと力比べをしていたら、怒鳴り付けるようなビクトールの声が聞こえ、廊下を走る足音も聞こえ。

「うん。……これで、心置きなく。……ね?」

言付けた通り、カーラ達が逃げて行ったのを確かめて、ユインは右手に棍を掴み直し、にっこり、『食事』を終え、己を振り返った金狼へと笑い掛けた。

「別に、カーラがいたら具合が悪いって訳じゃないけど。やっぱりねえ、恋人は一刻も早く、安全な所に逃がしてあげたいっていうのが、心情でしょ、男の。……そう思わない? ……って、獣に言っても無駄だよねー」

笑い掛け、語り掛け、そうしながらも視線は動かし、その室内が、棍を振るうに充分な広さと高さを持っているのを確認すると、改めて天牙棍を構え、腰を屈めて。

「始めよっか?」

ユインは、床を蹴った。

強く、叩くようにそこを蹴って、数匹の金狼が待ち受ける輪の中へと、飛び込むように駆け、広がり続ける血溜りが、ぴしゃりと、足許で粘質の雫となって跳ね上がる中、飛び込んだ輪の中央で、棍を振りつつ身を翻し、グルグルと、低い唸りを上げる狼達を打ち据えて。

「諦めて引き返してくれても、僕は構わないんだけ、どっ」

怯みはすれども引き下がらぬ獣達へと、二撃目、三撃目と続けざまに放ち、最後。

「我が真なる紋章、生と死を司る紋章──

掴み続ける棍もそのままに、頭上高く右手を掲げ、ユインは、ソウルイーターを呼び出した。

…………彼の詠唱に応えて現れた、決して目映いとは言えぬ、けれど生き物の瞳を覆い尽くすには充分過ぎる明るさを持った浅黒い光は、瞬く間に辺り一面を覆って、まるで仔犬のそれのような、か細い鳴き声を、金狼達に放たせたけれど。

「…………うわー。もしかしてこれって、獣の紋章の眷属か何か? しぶといねー」

『死神』の放つ、浅黒い光に飲まれても、消え去ることなく獣達は留まり。

その様を見遣って、やれやれ……と彼は。

これは、思っていたより荷が重いかも知れない、と、微かに肩を竦めた。

不気味な程に静まり返っていたミューズの市門を潜ったのは、未だ、天を渡る太陽が、それなりに高い場所にいた頃だった。

けれど、今はもう、頭上へ、ちらりとも視線を走らせずとも時刻が判る程、辺りは茜色だった。

…………そう、夕暮れ。

けれど、ユインは未だにミューズの市内におり、棍を操りつつ、金狼の群れと戦い続けていた。

──市庁舎の最奥で対峙した金狼達は、余裕を持って倒すことが出来たが、カーラや仲間達の許へ戻ろうとする彼の行く手を、意思持って阻んでいるかのように、後から後から、金狼達は、汲めども尽きぬ泉の水の如く、姿を現した。

だから、ミューズの街が夕暮れを迎え始めた頃には、いい加減ユインも、この金狼達は、獣の紋章の眷属だという確信を得ていて、だと言うなら、戦い続けても意味がないから、『トンズラ』してしまおうと決めた。

……紋章が生み出す眷属は、或る意味では幻影に似た、使い魔のような存在で、極端に言うなら、『親』である紋章の力が及ぶ限り、幾らでも『生まれ』続ける為、戦って、倒して、消してやっても、意味を成さない。

そんな存在と戦うことは、火種の燻り続ける火事場で、煙を払い続けるそれと一緒だ。

要するに、キリのない行為。

それ故彼は、戦うことを止め、逃げる道を選んだのだけれど、金狼──否、獣の紋章と、それを操る誰かは、彼をミューズ市に留めておきたい腹積もりのようで、空一面が、茜色に染まる刻限となっても、ユインが市門を潜ることも、市内を取り巻く壁を乗り越えることも、許そうとはしなかった。

──今更語る必要もないのだろうけれど、カーラを連れ出す際ビクトールが口にしたように、もう随分と長い間、ユインは戦いの場で負けを喫したことがなく、それだけの実力を持ち合わせている彼だから、戦いが長引いても、金狼達に引けを取ることはなかったが、如何せん、相手にしなければならない数が多過ぎた。

彼とて人の身、魔法を唱え続けるにも、絶え間なく得物を振り続けるにも、自ず、限界はあって。

「……もう、勘弁してよ…………」

そんなぼやきをユインが零した時には、空の色は、茜色を通り過ぎ、闇色になっていた。

それでも、金狼達の姿が費えることはなくて、壁の外や市内に戻った喧噪から、一旦は退却した筈のハイランド軍がミューズに舞い戻って来たと知れ、鬱陶しい眷属達に加えて、敵軍までをも相手にしなくてはならなくなったと、ぼやきつつ彼は一瞬、天頂を仰いだ。

が、ふいっと、空を仰いで直ぐさま、嫌そうに顰められていた彼の面は、何時も通りの輝きを取り戻す。

──ハイランド軍が戻って来たということは即ち、同盟軍は撤退を余儀なくされたということだから、カーラは今頃仲間達と共に、本拠地へと戻る行軍をしている筈で、彼が城へ戻っても、自分は追い付くこと出来ないだろうから、心配を掛けてしまうのは、間違いな…………──いや、心配を掛けるだけでは済まなくて、あの子のことだから、一人で泣き出してしまうかも知れない。

でも、獣達と兵士達、その両方を相手にしなければならないのは、これまで以上に骨折りだけれど、完全に陽が落ち切ってしまえば、夜陰に紛れてこの街から脱出することとて容易になる筈なのだから、あの子を泣かせない為にも、一刻も早く……、…………と。

……もう、ソウルイーターを呼び起こす為の魔力も尽きて久しかったけれど、それでもユインは、凛と面を上げて、力の限り棍を振るって、陽が落ち切ったのを見定め。

ミューズ市を取り巻く、壁の一角を越えた。

…………否。

越えようと、した。