──時は、少々遡る。
未だ、ミューズ市庁舎の一室で、ユインが一人、金狼達を相手にしていた頃まで。
ビクトールに促されて、どうしたって引かれる後ろ髪を断ち、鈍りそうになる足を叱咤して、市街地を駆け抜け、息せき切って市門を抜け、漸く、腕を掴んで離さなかったビクトールの手が消えたから、カーラは、駆け抜けて来た道を振り返った。
「ユ──」
「──カーラ様」
呼んでみた処で届きはしないと判ってはいても、どうしても、置き去りにして来てしまった恋人の名を呟きたくて、彼はその名を口にし掛けたのに、それを掻き消すように、走り寄って来たクラウスに強く呼ばれ、仕方なく彼は、恋人の名を胸の中でだけ呼んで、副軍師へ向き直った。
「退却致します。お支度を。ハイランド軍が戻って来ました」
「…………え?」
何? と、見上げた目でのみ問えば、珍しく焦ったような口調でクラウスがそう告げたので、カーラは、今度は目を見開いた。
「ハイランド……が……?」
「はい」
「……でも……。でも、駄目……。……駄目だよ、未だ中にユインさんが……」
「カーラ様。一刻を争うんです。ですから今は──」
「──だけどっっ」
そうして、瞳見開いたまま彼は、あの人を一人残してこの場所を離れることなど、出来ないと言い張ったけれど。
「……カーラ」
隣で、クラウスとの話を黙って聞いていたビクトールが、不意に彼へと声を掛け。
「何? ビクトールさん。クラウスさんの言うこと聞けって言うんなら……」
「いや、そうじゃなくって。一寸、こっち来い」
例え、『正しいこと』を言われても、耳は貸せないとの顔付きになったカーラの腕を、傭兵は又引っ掴んで、ミューズより撤退すべく、一〇八星達が集まり始めている輪の中へ引き摺って行った。
「おーーーい!」
そしてビクトールは、掛け声と視線の動きだけで相棒を呼び付け、何だ、とか何とかブツブツ言いながら近付いて来たフリックに、何やら素早く耳打ちすると。
「じゃ、後頼むわ」
……ポイ、っと、カーラを放り投げた。
「ああ、判った」
一体彼等が何をするつもりなのかの問いも掛けられぬ内に、カーラはフリックに羽交い締めにされて。
「ルック!」
捕まえた盟主が事態を飲み込む前にと、フリックは、慌ただしくルックを呼び付け、
「今直ぐ、本拠地飛んでくれ」
……と、人一倍察しのいいルックへ、緊急事態であることを、声のトーンのみで知らせたから。
「嘘、ちょ……一寸待ってっ!」
彼がルックの名を呼ぶ声に、やっと、何が起こるのかを悟ったカーラが、制止の声を上げた時には、もう。
ルックのロッドは振り上げられて、転移魔法の光の中へ、カーラは放り込まれていた。
──そして、話は戻る。
同盟軍が、ミューズの奪還に失敗した日から数えて数日が過ぎても、ミューズ郊外にて、ハイランド軍を退けつつ撤退して来た仲間達が、グリンヒルを経由して、本拠地へと戻って来ても。
あの日、あの街に一人残ったユインのみが、帰還を果たさなかった。
一般兵達と帰還して直ぐ、あの日の『乱暴』を傭兵達は謝ってくれて、彼等が戻って来る頃には、カーラも、あの時の自分は頭に血が上って見境がなかったからと、逆に詫びることも出来る程度にはなっていたけれど、どうしても彼は、心からは笑えなかった。
普段通り振る舞おうとしている彼が、本当は、ユインのことで心を痛めていると仲間達はお見通しだったから、皆様々、励ます言葉を掛けはしたものの、そんな彼等へカーラが返す笑みは、何処までも、作り笑いだった。
仮面を被って笑っているかのような、変化に乏しい、怖くて悲しい笑顔。
でも、そんな笑顔を浮かべてみせるカーラを、誰にもどうにも出来なくて、唯、彼が望む人が無事に戻って来るのを祈るくらいしか、出来ることはなくて、でも。
ミューズから撤退して来た自軍が、本拠地へ帰り着いた日から数えて七度目の夜が明けても、カーラの愛しい人は、姿を見せず。
消息も判らず。
八日目の、朝日が昇った頃には、明けて行く空を、自室の窓辺からぼんやりと見上げて、もう、涙も涸れそう、と。
そんなことすら、カーラは思うようになった。
ユインの行方が知れなくなって、八日目。
カーラの涙が涸れ始め、溜息しか零れなくなったその日。
酷く申し訳なさそうな顔をして、朝食もそこそこに切り上げ、部屋へと篭ってしまったカーラを、クラウスが呼びに来た。
そっと、身を小さくするようにして姿見せた彼を、カーラは最初、何処となくぼんやり眺めたけれど、縮める風にしている姿同様、控え目な声で、シュウ軍師が、と告げられたから。
「はい、今行きます」
一応は、『何時も通り』、にっこりカーラは笑ってみせて、クラウスの後に付き、二階の議場へ降りた。
そして、そこで。
「…………ロックアックス?」
向った二階議場で彼を待っていたのは、シュウ唯一人だった。
己を呼びに来た副軍師の様子から、『何時も』の軍議でも開くんだろうと、カーラはそう想像していて、故に、閑散とした議場の様に彼は首を傾げたけれど、役目は終わったとばかりに引き返してしまったクラウスが、議場の扉をきちんと閉めるのだけを待って、カーラの戸惑いを他所にシュウは、急き立てるような早口で、盟主を呼び付けた理由を語った。
ハイランド軍に降伏をした、マチルダ騎士団領を攻める、ロックアックスの城を目指す、と。
「………………どうして、今……?」
それを聞き届け、暫しの間、沈黙のみを返し、やがてカーラは、上目遣いにシュウを見て、一つ、苦しそうに息をした後、問うた。
「最近ずっと、強行軍だったのに。……何で? ミューズには未だ、ハイランドもいるし……」
「……ロックアックスを攻めるには、少々難しい時期であるのは否定致しません。ですが、そうも言ってはいられないのです。──今、マチルダ騎士団領には、ハイランド軍が集結しつつあります。ロックアックスに駐留中のハイランド軍と騎士団を合わせれば、総数にして、五万五千程になります」
「…………だから?」
「皇国は今一度、グリンヒルを攻めるつもりでしょう。もう一度、あの街を攻め陥とされる訳には行きません。ですから皇国軍の総力が全て、ロックアックスに集まる前──即ち今の内に、我々は手を打たなくてはなりません。……ご理解、頂けましたか? ──苦しい戦いになるのは、私にも否めません。ユイン殿のこともありますから、トランの義勇軍や、傭兵部隊の士気の低下も懸念ではありますが、だからと言って、彼が戻って来るまで待つという訳にも」
顔色にも、声音にも、拒否の気配は忍ばせず、けれど瞳からだけは、不服そうな色を消さず、カーラが尋ねて来た『理由』を、淡々と、真実無表情のままシュウは答えた。
「…………どうしても、なんだ」
「ええ、どうしても、です」
「……うん。シュウさんが、そうだって言うんなら、僕はそれで……」
「そうですか。有り難うございます。………………カーラ殿」
「何?」
「大丈夫、だと思いますよ。ロックアックスを攻めると言っても、準備をするのはこれからです。どんなに急いでも、支度が整うまで数日は掛かります。……きっとその内に、ひょっこり帰って来られるでしょう、あの彼も」
──戦争に勝つ為の躊躇い、それ以外は一切受け付けられないと、そんな気配を漂わせてシュウが答えを告げれば、カーラは何も彼も諦めてまったような風情でロックアックス攻めを了承し、シュウは盟主へと一礼をして、でも。
その声こそ、何処までも素っ気ないそれではあったけれど、流石に、とでも思ったのか彼は、カーラを慰めるような科白を口にした。
その最中も、彼の取る無表情は変わらず、慰めの言葉に、真実味は余り感じられなかったけれど。
「判ってるよ、シュウさん。ユインさんだもの。ユインさんが、無事に帰って来ない筈、ないじゃない」
それでもカーラは、シュウの言葉を労りと信じ、気遣いに報いる為の笑みを、何とか上手に拵えて、彼へ、そして自分へ言い聞かせるように、弾むように言って、トコトコ、議場を出て行った。