困ったな、どうしようかな、と。

そう呟かれた独り言とは裏腹に、これから昼寝か何かに勤しむ風な顔をして、ユインは辺りを見回した。

辺りは、とても薄暗く。

数ヶ月前の時と同じく、何処となく埃っぽくて、水の匂いは強かった。

でも、そんなことを気にしている場合じゃないんだけどな。……と、己で己に肩を竦めて、彼は、身を隠していたそこから、目許だけを外へと覗かせ、周囲の様子を窺うと、すっと又、全身を隠した。

物陰から、視線だけを巡らせ窺った『外』は、既に夜だった。

故に、それを知った彼は、潜んでいた物陰が薄暗い所為で、昼夜の区別も付かなくなったことと、昼夜の区別も付かなくなるくらい長時間、身動きが取れていない現実へ、軽い舌打ちをした。

────あの日。

ひと度はミューズを奪還せしめ、乗り込んでみた街中で金狼に襲われ、カーラを無事に逃がす為、その為だけに一人残ったあの日。

倒しても倒しても、姿を見せ続ける金狼達を相手にするのに、疲れを感じていたのは本当で、嫌気が差していたのも又真実で、だからと言って決して、油断をしたとか気を抜いたとか、そんな怠慢を、身の内に抱えた訳ではないが、街を囲む高い壁、あれを越えようとした刹那、「ああ、これで……」とホッとしたのは確かで、何処からともなく放たれた弓矢に、彼は気付けなかった。

軽い、空を切る音立てながら飛んだそれに、足首を掬うように抉られるまで、彼ともあろう者が、その気配も察せられなかった。

あ、と思った時にはもう遅く、それでも何とか、市壁を滑るような姿勢だけは取って、墜落の衝撃は軽減し。

厄介なことになった…………、と、歯噛みをしながら彼は、同盟軍が撤退して行った方角とは逆の、東へ向った。

足首に負った矢傷程度、普段の彼ならば、この上もなく簡単に解決出来る障害でしかないが、嫌気が差す程に金狼達の相手をした直後だったことが災いして、癒しの魔法を唱える気力もなければ、懐から取り出せる薬草の持ち合わせも尽きていたから、彼はわざと、逆方向を選んだのだ。

……金狼達は、まるで、この街から逃がさぬ、とでも言うように、後から後から湧いて来た。

あの狼達が、同盟軍盟主を亡き者にする、又は、捕らえる為に放たれたなら、まあ、納得のいく話ではあるが、自軍を従え盟主が去った──即ち、同盟軍が撤退し終えた後も、現れる金狼達の数は変わらなかったし、弓矢まで射掛けられては、もしかしたら連中は、カーラではなく己の方に『用事』があったのかも知れないと、そんな想像を巡らせるのも、馬鹿げているとは言えなく。

手傷を負ったまま、馬鹿正直に逃げるのは、と、彼は東に。

…………そうして、夜陰に紛れて彼は、敵兵の溢れる草原を突っ切り、ミューズとトトを結ぶ街道途中の外れにある、白鹿亭へと転がり込んだ。

大分以前、彼自身も厄介になったことのある宿だから、勝手は判っているし、白鹿亭の主夫婦は今、カーラの協力者となり、同盟軍本拠地で宿屋を営んでいるから、訪れる者はいないだろうと、そう踏んでのことだった。

が、ハイランド軍が『用事』があるのは、カーラではなく己、との想像を肯定するように、彼が白鹿亭へ身を潜めた後も、チラチラ、追っ手は姿を見せ、彼は、暫しの隠れ家としては上等過ぎる、無人の宿屋を放棄して、宿屋裏手の、シンダル遺跡へと潜んだ。

そこなら、安全だろう、と目論んで。

そして、その目論見通り、魔性の者達も彷徨くシンダル遺跡の中までは、ハイランド軍の者達も、余り姿を見せなかったが、逆に。

その選択は、無人の宿を半ば拠点として、しつこく己を探し続ける敵兵と彼の間に、『隣人』の関係を築く結果となってしまって、本当に、仕方なし。

一刻も早く、カーラの所へ帰りたいのに……、と思いながらもユインは、足の傷がきちんと癒えるまで、潜伏せざるを得なくなった。

……だから。

あの日から数えればそろそろ、一週間は経つ、と相成っても。

彼は、シンダル遺跡の中で、一人。

同盟軍が、ロックアックス城を攻める為の、支度を整え始めているとも知らずに。

ミューズ市奪還に、同盟軍がしくじってから八日目。

デュナン湖の対岸にある、同盟軍本拠地で、カーラが、シュウよりロックアックス攻めの話をされていた日。

もう、頃合いも頃合いだろうと、ユインは、日没を待ち、シンダル遺跡から抜け出ようとしていた。

足の傷の方は、二、三日前には一応の回復は見せたし、白鹿亭より失敬して来た保存食も尽きそうだった。

──心底うんざりする程、追っ手はしつこくて、そのしつこ過ぎる追っ手が、思い通りの行動をさせてくれなく、最初の頃は、確実に同盟軍領内へと戻れる、との確信が得られる状況になるまで、待とうと思って大人しくしていたが、でも、既にあれから八日、もう、そんなことは言ってられない、いい加減、我慢の限界、と、多少の『労働』を強いられても、今宵にここをと、彼はそう決めた。

叶うなら、日が明るかろうが何だろうが、今直ぐここを発ちたいくらいだ、というのがユインの本音で、それでも理性が、せめて夜になるまで待つように、と酷く現実的なことを強いて来るから、この数日間そうしていたように、薄暗い遺跡の片隅に、腰が痛い、とか何とかぶつくさ呟くことで己を誤摩化し、踞ってはいるけれど。

陽が落ち、辺りが闇に包まれたら、時折、己自身にも手が余るくらいやたら強固な理性が、何と言おうが知るもんか、と。

「………………ん?」

──と。

勇み、逸る己と、確実な退路が確保出来ないなら今宵も、とうるさい己の、『二人』を相手にしていた彼の耳に、微かな喧噪が届いた。

「又、何か……?」

聞き付けた騒ぎより、この数日間幾度か繰り返されたように、又連中は、盛大な『遺跡浚い』でも始めるつもりかと、潜んでいた影から、彼は僅かに、声のする方へと進んだ。

──…………で、だから……──

──へえ、じゃあ…………──

……そうしてみれば。

直ぐ傍より、数名の男達の気配が強くして、息を殺し、耳をそばだててみたら、何やら、驚いた感じの声音で、男達が話し合っているのが聞こえ、もう少しだけユインは、男達の気配のする方へ近付いた。

「皇王陛下も軍師殿も、気紛れなこった」

「まあな。おまけに、人使い荒いしな」

「やれやれ。……こっちの仕事の方が、楽だったんだけどなあ……」

「まあな。幾ら、トランの英雄かもってな相手を探すったって、もしかしたら英雄様じゃない、只のガキ一匹、相手にすればいいだけの話で終わったかも知れないのに。向こうに行ったら、確実に戦争だもんな」

「本当だよ。同盟軍の連中、直ぐにでも攻めて来そうな勢いなんだろう? ……っとに、なーんで、ロックアックスなんかに……。…………大体さー、何で俺達、トランの英雄様かも知れないガキ、探さなきゃならなかったんだ? こんな古ぼけた遺跡の中、這いずり回らされてさ」

「んなこと、俺に判るかよ。皇王様と軍師殿に訊けよ。──兎に角、撤収だ、撤収。もう、『英雄様』のことは、今はどーでもいいらしいからさ。ミューズに戻って、ロックアックスへ向う支度だ」

不服そうにしている男達の態度さえ、手に取れそうな程近くに寄ってみたら、その盛大な愚痴より、彼等がシンダル遺跡を後にしようとしていることが、ユインには知れた。

どういう訳か、なのかまでは判明しなかったけれど、『皇王様と軍師殿』が、己を探していたらしいこと、けれどそれは打ち切られ、兵士達は、ロックアックスで行われる、同盟軍との戦いに駆り出されるらしいことも。

「ロックアックス、か……。ロックアックス、ねえ……。でも、何で?」

それを知り、彼は、連中が引いてくれるのは、最高有り難いことだけれど、と思いながらも、北国の城、そこを攻めようとしている同盟軍と、迎え撃とうとしているハイランド軍のことを考え、渋い表情を拵え。

「………………あ」

────カーラは、己のいない戦を知らない。

その事実を思い出し、呟きを洩らして、一層、顔の渋味を深くした。

……例え己がいなくとも、立派に同盟軍の盟主を務める彼は、何としてでも戦いに立ち向かうだろうけれど、こんな形で『生き別れた』まま、彼を一人戦場へ向わせるのは、酷過ぎるのではないかと思えた。

恋人同士だろうと何だろうと、己とカーラは『違う者』で、紋章を宿してより辿った運命も、似通ってはいるけれど等しくはなくて、その運命の中で抱えたモノも、似て非なるけれど、『あの頃』、近しい人を一人ずつ失いながら、それでも戦わなくてはならなかった時、それを己が、『辛い』、と感じたことがあるように、カーラも、戦わなくてはならない今を、辛い、と思っているかも知れない。

少なくとも、己が彼の立場だったら、本音の部分では、辛い、と思うだろう。

……だから…………、と。

彼は、そうも思った。

「カーラ、御免」

それ故、彼はそう呟いて、人気の消えた遺跡より、未だ陽の高い内に抜け出し。

悠長に、本拠地に戻っている暇は恐らく無いと、北進するハイランド軍の後を追うように、北の城を目指し始めた。