夕暮れを迎えたロックアックスは、ハイランド軍の全てと、同盟軍の大半が撤退を終えた為に、多少だけ、静けさを取り戻していた。

掃討戦と、ロックアックスの平定の為に残った同盟軍の一部が、慌ただしく城内や城下を行き交ってはいたが、その数も、余り多いとは言えず、数時間前に比べれば、閑散とした印象を与えて来るロックアックスを、羽織っていたマントに深く包んだカーラを抱いてユインは抜け、けれど、城下へと出ても、カーラの懐に仕舞われている瞬きの手鏡は使わず、人目を忍ぶように街角から街角を抜け、街からも抜け、日の暮れ掛けた街道を、グリンヒル方面へと進み、その途中にある、小さな村の、小さな宿屋に部屋を取った。

昼間、戦場となった草原より、僅か外れているその村は、直ぐそこで戦があったことなど嘘であるかのように、片田舎の佇まいを保っていて、一目で様子がおかしいと判るカーラを抱いているユインを見ても、宿屋の者達は何も言わず、部屋へと通してくれ、静か過ぎる程静かな、小さな宿屋の小さな一室で、ベッドの上にカーラを横たえてからユインは、本当に小さく、溜息を付いた。

──カーラが落ち着いたのを見計らって、瞬きの手鏡を使い、本拠地へと戻った方が良いのだろうと、そんなこと、ユインも理解はしていたが、本拠地へ戻ることへ覚える躊躇いを、どうしても彼は振り切れなくて、そんな場所を選び、今宵はそこで過ごそうと、そう決めた。

……あの城で、今起こっているだろうことを想像してしまえば、ナナミの為にもカーラの為にも、連れ帰ってやった方がいいのだろうと、そんな気に駆られるけれど、死線を彷徨っているだろうナナミの傍へカーラを連れて行って、又、ロックアックス城内の回廊で起こったような事態になったら、と、更なる想像を巡らせてしまえば…………──

泣かれても、喚かれても、詰られても、恨まれても。

紋章が暴走してしまうような事態は防がなくてはならぬし、何より、例え、救う相手が何者であったとしても、カーラの命と引き換えにするような真似を、ユインはさせたくなかった。

エゴと言われればそれまでかも知れない、でも、それでも。

「…………御免ね。目が覚めたら、カーラ……僕のこと、怒るかな……?」

その為。

ユインは何処となく、帰る場所が判らなくなった迷子のような心地を抱えて、瞼を閉ざし続けるカーラの髪を撫で、一晩。

苦い笑みを湛え続けた。

「…………ユインさん……? ここ、何処……? 僕、どうして……?」

小さな村の小さな宿屋の小さな部屋で、カーラが目を覚ましたのは、明くる朝だった。

一睡もせず、傍らに寄り添ってくれていた風なユインを、目覚めて直ぐに彼は見付け、うっすら笑み掛け、が、不思議そうに顔を顰めて彼は、ここは何処だと、そんなことを口にした。

ここが何処で、自分がどうなってしまったのかも、否、ナナミのことさえ、思い出せない顔付きで。

「……ここはね、ロックアックスとグリンヒルを結んでる街道から、少しだけ外れた所にある村の宿屋。……カーラ? 昨日のこと、覚えてる……?」

そんな彼の顔を覗き込みながら、ユインは躊躇いがちに、昨日を……、と尋ねた。

「昨日……? 昨日、は……。きの、う…………────────あ…………。……ナナミ……。ナナミはっ!? ユインさん、ナナミ……っっ……」

すればカーラは、暫しの逡巡の後、全てを思い出したように、悲痛な声を放った。

「ナナミ……。ナナミは……。……ユインさん、どうして? どうして本拠地じゃない所に、僕は……っ。……ナナミは? ジョウイは? それに、ユインさんは、何で……? ずっとずっと、帰って来なかったのにっっ。ずっと帰って来てくれなくって、ユインさんはもう帰ってなんか来ないってジョウイには言われて……っ。何が何だか……っ……」

「カーラ、落ち着いて? ちゃんと話すから。本拠地にも、何時でも帰れるから。……だからね。僕の話を聞いて?」

がばりと起き上がり、ユインの胸倉を掴み上げんばかりの勢いで叫びを放ち続けるカーラを、ユインは宥めたけれど。

「そんなこと言われたってっ。何がどうなってるのか、何が何なのか、僕には判らなくてっっ。…………ナナミがどうなっちゃったのかも……っ……。……僕、もう、どうしたらいいのかなんて、判らない…………」

カーラはそのまま、ユインに縋って、昨日のように、唯、泣き始めてしまった。

「カーラ…………」

宥めても宥めても、カーラは泣くのを止めてはくれなくて、でもそれでもユインには、宥め、慰めるしか術がなかった。

大切な肉親を失ってしまった痛みは、失ってしまった当人しか判り得ないし、カーラにとってのナナミと、己にとっての父や親友とは、その胸の中での有り様は違うだろうけれど、抱えることになってしまった痛みの度合いは似たり寄ったりだと、ユインにはそう思えてならなく。

そう思えてしまうからこそ、どんな言葉を掛けて良いのか判らず。

それが嘘になってしまった時は、より一層、カーラを悲しませるだけだと頭では理解しながら、大丈夫だよ、と。ナナミちゃんはきっと、大丈夫、と、そんな、嘘でもなく本当でもないことを、ユインはカーラへ、言い聞かせ続けるより他なかった。

可能な限り、優しく抱き締めて、宥めて、慰めて、大丈夫、の言葉だけを繰り返してやれば、儚く、でしかなかったけれど、何とかカーラは、ユインの躰に縋ったし、ユインの言葉に頷きを返したから。

己が囁き続ける、『大丈夫』の言葉が、どうか嘘になりませんように、それだけを祈ってユインは、午前が終わる頃、やっと、落ち着きを取り戻したカーラを連れて、本拠地へと戻った。

「ただいま」

──本拠地一階広間の、大鏡の前に現れた己とカーラへ、鏡の守人ビッキーが、大きく目を見開いて、喜びや、悲しみや、躊躇いが入り交じった目を、おどおどと向けて来たから、にっこり、微笑みを浮かべ、ただいま、と言いつつも、城内に漂う、重く苦しく、全身に伸し掛かって来るような気配を察してユインは、カーラの二の腕に添えた己が手の力を強くし、良くも悪くも突き刺さるような複雑な視線を、様々送って来る仲間達から恋人を庇うようにして、彼はカーラを連れ『えれべーたー』へ乗り込み、先ずは四階の、シュウの部屋へと向った。

扉を叩き、開け広げ、敷居を踏み越えた先には多分、己の『言葉』を『嘘』にする一言が待ち受けているだろうと、そう思いながら。

ユインはシュウの部屋の扉を叩き、応えを待たずに開け広げ、敷居を踏み越えて。

「……お戻りですか」

ユインとカーラの二人が、一晩、無断で何処へと消えていたことすら失念している風情で立ち上がった正軍師と、ユインは睨むような視線で、カーラは縋るような視線で、向き合った。

「………………シュウ、さん……? ナナミ、は…………?」

何を言い出す訳でもなく、唯じっと自分達を見詰めて来るシュウへ、堪えきれなくなったようにカーラが問い掛ける。

「ナナミ、は」

…………すれば、シュウは。

「彼女は。昨夜遅くに、亡くなりました」

嘘でも良いから、義姉は生きていると告げて欲しかっただろうカーラへ、ナナミの死を告げた。

ナナミが死んだ、と聞かされて、一人で立つことも出来なくなってしまったカーラを部屋に運んだ後、顔も見たくない、と思いつつもユインは、シュウの部屋に戻った。

彼と二人きりで対峙したが最後、もう一度、彼を殴ってしまうのではないかと、そんなことを考えたが為、ユインの顔の渋さはかなりのものだったけれど、戻ったその部屋で、見たくもないシュウの顔を眺めてみても、もう張り倒す気すら、彼の中では湧かなかった。

張り倒してみた処で、何も変わらない、と思えたのかそれとも、憤りだったり嘆きだったり、と言ったそれすら突き抜けてしまったのか、ユイン自身にも理由は判らなかったが。

「……ご無事で、何よりでした」

建前なのか、本心なのか謎な一言を告げられても、彼は肩を竦めてみせるだけで。

「…………ナナミちゃんの、亡骸は?」

淡々と、事務的に、扉近くに立ち尽くしたまま話を始めた。

「埋葬致しましたが」

「……もう?」

「ええ」

「………………何処に」

「城の地下の墓所に」

「どうして? ……何で、カーラが戻って来るまで待つくらいのこと……」

「……死んだ家族の亡骸に縋って、泣き崩れるような盟主の姿など、晒されては困るからです」

「成程。……お説、ごもっとも……」

何の感慨も齎されぬ調子で始まったその話が、そこまで辿り着いて漸く、ユインは苦笑のような、呆れた嗤いのような、そんな面を拵えたが、その笑みと、溜息のような息を一つ吐いただけで、本当は五万とあっただろう、シュウへと言い募ってやりたい思いを飲み込み。

「もう一つだけ訊くよ。……ロックアックス攻めの時、どうして僕の戻りを待たなかったんだ」

彼は、話を変えた。

「…………お判り頂けていると思いますよ、貴方には」

だが、その問いに返された答えは、余りにも簡潔で。

「……ふうん。じゃあ、僕の想像通りでいいんだ?」

「ええ、多分」

「……やっぱり、もう一発、張り倒してもいい?」

「お断りします」

口調を、ムッとしたそれへと移し、睨み付けるように彼は、昨日己が、その整った面へ与えてやった痛みを、魔法の力を借りて消し去ってしまったのだろう正軍師の顔を見詰めたが、ふいっとシュウが、視線を逸らしてしまったが為。

「なら、もういい。話はお終い。……でも今度、同じ魂胆振り翳したら、例え貴方でも、殺すよ?」

彼はそれだけを言い残して、その場より立ち去った。