夕暮れ時のミューズ。

「……だって、どうしてもナナミちゃんに、って、カーラさんがそう言うから…………」

血相変えて近付いて来たユインに、少しばかり戦きつつ、カーラの行方を知らないかと問い詰められたビッキーは、最初の内こそ恍けていたものの、やがて、渋々、乞われるままカーラを、キャロの街へ送ったと白状した。

「…………キャロ……。判った、有り難う。──ルックっ!」

キャロへ、と、ビッキーの告白を聞いた途端ユインは、もどかし気に彼女の傍を離れて、今度はルックを呼ぶ。

「……何さ」

「僕を、天山の峠に送ってくれ。今直ぐ。……早く!」

「天山? 天山の峠なんかに行ってどうするのさ。……今の話、聞いてたけど、あいつが行ったのはキャロなんだろう?」

「いいから。本当にカーラがキャロへ行っただけなら、それはそれで構わないからっっ」

呼ばれ、天山へと乞われルックは、嫌そうに顔を顰めたが、ユインの剣幕が余りのものだったので、その場で。

「面倒臭いことばかり言うんだからね……」

彼はブツブツ零しつつも、ロッドを振って、求められるまま、ユインを天山峠の麓に送った。

──太陽は、もう。

西の彼方に、沈み始めていた。

轍の跡が残る街道は駆け易いとは言えず、幾度か足を掬われそうにはなったが、倒れ込むことなく進むことは出来て、が、それでも。

カーラが、天山峠の入口に辿り着いたのは、西の空に、太陽が沈み始めた頃だった。

肩口が、激しく上下する程息は上がっていたけれど、彼は、峠の麓で大きく一息だけを付いて、休もうともせず、坂道を駆け上がった。

木々が生い茂る峠道は、夕方という刻限の所為で、只でさえ薄暗くなり始めた辺りを、一層暗く見せ。

そんな中、そう言えば……と、又彼は、遠くなってしまった日々のことを、振り返り始める。

…………そう言えば。

この峠道を登ったことはあっても、下ったことはなかった。

あの野営地へ向う為に、殺されてしまった皆やジョウイと一緒にここを登って、けれど『あの夜』、あんなことになってしまったから。

結局、一度たりとも、自分はここを下ったことはない。

あんなことさえなければ、無事に朝を迎えて、キャロへ戻る為、皆と一緒にここを下れた筈なのに、それは叶わなかった。

………………降りたことのない、この道だから。

やっぱり僕は又、こうして、この道を再び登っても、自分の足で降りることは、有り得ないのかも知れない。

──……そんな風に。

息を切らし、坂道を登りながら、頭の隅でカーラは、ぼんやり考えていた。

そうしている間にも、夕日は、少しずつ確実に、西の空へと潜り込んで。

……激しく落ちる滝の音が聞こえてきて、やっと、あの場所に着いたと彼が安堵した時には、夕暮れは既に、半分程が終わっていた。

駆け続けた足の速さを緩め、少しばかり緩慢に、『約束の場所』へ歩を進めれば、思った通りそこには、人影が一つあって。

人影は。

カーラの気配を察したように、立ち上がる。

「…………カーラ。来たね」

ゆらりと動き出し、カーラへと近付き始めた人影は、徐々に、ジョウイの姿を取って、ああ、確かにジョウイだ、と、疑う余地もなくそう思えた時にはその姿は、カーラの眼前にあった。

「……うん、来たよ……」

「約束、覚えててくれたんだね」

「…………うん。約束だから」

「そうだね。約束、だから。………………カーラ」

「……何」

「決着を、付けよう」

冴えた青に塗られた棍を片手に、カーラの目の前に立ったジョウイは、有無を言わせぬ口調で言った。

「どうして? そんなこと、必要……?」

「必要だよ。……判ってるだろう?」

「…………うん。……ルルノイエでは、僕も、そう思ってた。もう、何も彼も、終わらせなきゃいけないんだろうな、って。僕達は、こうなってしまったから、決着っていうのを、付けなきゃいけないんだろうな、って……。……でも」

「……でも?」

「でも、ジョウイ……、ジョウイは、ルルノイエのあの部屋に、いてくれなかった…………」

かつての親友であり、『昨日』までの宿敵に、喉元へ、棍の先を突き付けるような素振りを見せられても、得物を構えようともせず、カーラはじっと、ジョウイを見た。

「……どうして? どうしてジョウイは、あそこにいてくれなかったの? ジョウイと戦うような『未来』、僕は望んだことなんてなかった。こうなる筈じゃなかったって、何度も思った。でも、『未来』はこうなって、だからきっと、こうなる筈じゃなかったけど、本当はこうなる筈だったんだろう、って。そう思って……っっ。もう、何も彼も終わりにするんだって決めて、ルルノイエに行ったのに、ジョウイはあそこに、いてくれなかった……」

「…………うん。もしかしたら、本当は。僕はあそこで君を待って、あの場所で、決着を付けなくちゃいけなかったのかも知れないけれど。約束……が、あったから。君との約束を守って、約束した場所、ここで、と、そう思ったから」

「……約束? ……離れ離れになることがあったら、ここで再会しようって約束? 約束交わした、あの頃のまま? …………だったら。それを守るつもりがあるんだったら。……どうして? どうしてジョウイは、あんなことしたの? 何で? どうして!? 誰も泣かない平和な国をって、最初にそう言い出したのはジョウイじゃないかっっ! なのに何で、アナベルさんを殺して、ハイランドに戻って、こんな…………」

微動だにせずジョウイを見て……否、見据えて、終いにカーラは叫びを上げた。

「………………僕、はね」

すれば、ジョウイは、ぽつり、と。

「……僕は。……うん。平和な国が欲しいと、そう思った。君や、ナナミや、僕が、一緒に、静かに平和に暮らして行ける国が、僕達の故郷に出来るならと、そう思った。ピリカみたいな子供達が泣かないで済む世界が生まれるなら、その為に生きて、戦っても構わないって。そうしてその為に、強く在るべきだ、って。…………うん。僕は、僕達の為に。僕や、君や、ナナミの為に。その為だけに、強く在ろうって、そう思ったんだ」

………………そう、ぽつり、と、彼は語り始める。

「それと、ジョウイのしてきたことと、何の関係があるのっ?」

「僕はね。強く在りたかったんだ。君や、僕の為に。君達のこと、守りたかったからね。誰にも、何にも、僕や君達のこと、何一つ、『渡したく』なかった。もう誰にも、翻弄されたくなんかなかった。…………でも、あの日から今日まで。ビクトールさん達の傭兵砦が陥ちた夜から、今日まで。誰よりも強くて、僕よりも、誰よりも、君のこと守ったのは、あの人……ユインさん、だった」

「…………? ユインさん……?」

「そう、ユインさん。……あの人は、本当に強くて。カーラが言ったみたいに、遠い異国の、戦いの神様、そのもののような人だ。……誰も、あの人には、勝てない。『神様』だから。僕が、紋章をこの手にしても、あの人には敵わなかった。……でも。神様は、所詮神様だから。カーラの中でもユインさんは、『神様』のままで終わるだろうって、そう思ったんだけど。ユインさんはやっぱり、ユインさんで。少なくともカーラにとっては、『神様』のままでは、終わらなかったから」

──誰も。

『神様』すら、立ち入らせることなく。

確かに己が手で守ろうとした彼の喉元に、棍の切っ先を突き付けたまま、ジョウイは言って。

その時、ふわりと笑った。