山並みの向こうに、沈む夕日の頂点だけがうっすら、一日の終わりの光を、滲ませた頃。
ユインはやっと、あの二人の約束の場所へ辿り着いた。
大して広くもないそこを見遣れば、耳朶を打つ激しい滝音の中、それに負けぬ声で親友の名を叫ぶ、カーラの姿があった。
地に倒れたジョウイの傍らに膝付き、力ない体を揺する、今にも泣きそうな姿が。
「……カーラ」
その隣へと立ち、静かに彼が名を呼べば、カーラは、はっと顔を上げ、酷く顔を歪めると、目を逸らして。
「ジョウイが…………」
小さく小さく、呻いた。
──多くを語られずとも、この場で何が起こったのかの想像を、ユインは付けることが出来た。
その想像が、当たらずとも遠からずであることも、知っていた。
故に彼は何も問わず、カーラに並び膝付いて、ジョウイを見下ろした。
「ジョウイ、どうして……? 何で、倒れて……」
「…………御免、カーラ……。本当は、君に倒されたかったんだけど……、もう、時間切れだ…………」
悲痛な声を絞り続ける親友へと視線を流し、その傍らに、ユインの姿があることに気付いて、微かな苦笑を浮かべ、彼は詫びを告げる。
「時間……? どういう、意味…………?」
「知ってる、かな……。輝く盾と、黒き刃は、僕達の命を削る……。……もう、僕は……限界だったんだ…………。君に倒されなくても、遅かれ早かれ、こうなった……。……でも、御免、カーラ……。僕は、君に倒されたかった……。君に倒されたかったし……君に倒されて、この紋章を渡せば、絶対に君は生き残れる……、って……、そう思ったんだ…………」
「……ジョウイ? だからさっき、あんなこと言ったの……? 僕を戦う気にさせる為に、わざとあんなこと…………」
「…………わざと、だけど……、嘘じゃないよ。嘘じゃない……。……君やナナミや、僕自身の為に、強くなりたかった……。力が欲しいと思って、強くなろうと思って、それさえあれば、全て守れると思った……。……僕は、君が羨ましかった。君のようになりたくて、君のように暖かい家族が欲しかったけど……、僕は君にはなれなかったし……君には勝てなかった……。……だからせめて、君や、ナナミを守りたかった。…………僕はね、カーラ……。君が羨ましくて、君には勝てないと思ったから、その代わりに、君の、兄さんみたいな存在になりたかったんだと思う…………。でもね……、でも……兄のような人だったのも、君を守ったのも、僕じゃなくて……」
「ジョウイ…………」
「……凄く、悔しかった……。ユインさんは確かに、『遠い、異国の、戦いの神様』みたいで……、僕はどうしても、『神様』にはなれなくて、不完全だけど、僕の手にだって、真の紋章があるのに、駄目だったから……。君が、ユインさんのこと愛してるなんて……知りもしないで、君の最愛の人のこと………………。…………御免よ、カーラ……。君を守りたいと思ったのに……、僕は君を、困らせただけだったみたいだ…………。────君の為に、僕が出来る最後のことは、もう……これしかない……」
……御免、の言葉から始めた告白を、掠れる声で終わらせて、揺らぐ瞳でジョウイは、力ない腕を、カーラへ差し伸べた。
「……手、出してくれよ、カーラ……」
「…………嫌だ」
「……嫌でも」
今にもコトリと落ちそうな、震える親友の手を目の前に、カーラは首を振ったが。
……恐らくそれが、最期の力だったのだろう、酷く強く、ジョウイは逃げて行く彼の手を無理矢理掴み、途端。
「……………………さよなら……」
淡くて、綺麗で、けれど厳しく冷たい光が辺りを満たし、カーラやユインが思わず細めた眼差しの外で、別れの言葉をジョウイは洩らした。
「ジョウイ……? ジョウ……イ……? ………………ジョウイっ!!」
痕が残りそうなくらい、強い力で己の手首を掴んでいた親友の腕が、枯れ葉のように落ちて行くのを取り上げて、カーラは叫ぶ。
………………掬い上げた腕は。未だ、暖かかった。
「こんなのは嫌だ、絶対にっ!」
力だけを失って行く、温もりの消えぬ手、それを握り返し、彼は強く言い放ち、その琥珀色した瞳に、刹那、頑な意思を宿す。
…………その想いに、応えた訳ではないのだろうけれど。
淡くて、綺麗で、けれど厳しく冷たい光──褪せて行こうとしていた、始まりの紋章の光、それが今一度だけ、きつく目映く輝いた。
するりと、己の両肩を抱き、頭を撫でてくれた暖かい両腕を感じながら、カーラは瞳を見開いたけれど、辺りは一面の『白』で、何も見えなかった。
それでも目を凝らし、じっと前を見据えていたら、徐々に『白』は褪せ。
「……カーラ」
「…………ユインさん……?」
「君は、強いね。本当に、強い」
霧が晴れるように、少しずつ鮮明になって行く視界の中で見えて来た、刹那抱き締めてくれた人──ユインを見詰めた彼は、そう呟かれた。
「え…………?」
強い、その言葉を囁かれた意味が解らず、微笑むユインを見詰め、次いで、己が右手を見詰めれば、そこには、輝く盾とは違う紋章──始まりの紋章があって、やっぱりジョウイは……と、恐る恐る、彼は視線を更に落とした。
見遣った親友は、先程と変わらず瞼を閉ざしたままで、身動
その時ぴくりと、ジョウイの体が震えた。
「ジョウイっ?」
「……カーラ? ……僕…………?」
溢れ始めた涙もそのまま、瞳を見開いたら、地に横たわっていた体を親友は擡げ、傍らのユインは。
「だから、言ったろう? 君は強いねって。……君は……君は本当に、『救い主様』だったのかも知れない」
そう言って、彼の涙を拭った。
「助かっ……た、んですか……?」
「そうだろうね。君は、こうして生きてるだろ?」
起き上がったジョウイは、呆然とカーラとユインを見比べ、彼の視線が己へと向くのを待って、ユインは頷く。
「…………でも……」
「でも?」
「こんな僕が、生きていても良いとは…………」
「どうして」
「……僕は、人を殺しました」
「そうだね」
「子供の我が儘みたいな妬きもちから始まった想いの所為で、アナベルさんを殺して、貴方が死ぬことを、望んだんですよ」
「だから?」
「アガレス皇王も殺して、ルカも謀略に嵌めて、終わらせる機会は沢山あったんだろう戦争を、ハイランドが滅びるまで続けたんですよ」
「……それで? ……『だから』?」
「いや、だから、と言われても……」
「別に、カーラに救われた命、それでも捨てたいって言うんなら、僕が引導渡してあげてもいいけど? ジョウイ君、君、死にたい?」
「……そういう訳、で、も……。でも、僕は死ぬのが当然だと思ってたから」
「へー。死ぬのが当然な人間ってのがこの世にいたら、お目に掛かりたいね、僕は。……ま、君の成したことは確かに、褒められたことじゃないし、ハイランド皇王殿は、同盟軍との戦に負けて、国を滅ぼされたんだから、そーゆー意味では、死んで当然なのかもだけど。君が生きることをカーラは望んで、始まりの紋章はそれに応えて、その結果こうなったんだから、いいんじゃないの? 僕は、カーラが良ければそれで良いし? この世には、生きて償うって言葉もあることだしね。それにさ」
「……はい?」
「ジョウイ君。君は、『ハイランド皇王』だった。この先、老いて逝くまで命が続いても、君はもう、故郷には帰れない。皇国だった場所の何処にも、デュナンの何処にも、もう君の居場所はない。浪々の身となって、見知らぬ土地へと流れても、『皇王』を知り、そして憎む者と巡り会ったら、君の平穏は消える。……この先。君は、そうやって生きてかなきゃならない。老いて尚、若かりし日の出来事を、重く、死ぬまで背負って。『出来事』を抱え、遠い故郷と、遠くなった、在りし日の幸せを思って。そしてそれは時には、今ここで死ぬよりも、尚辛いかも知れない。……だから、それも又、罰なんじゃないの? ……という訳だから。いーじゃない、それで」
最後のハイランド皇王だった己に、この先の生は、と俯くジョウイに、ユインが淡々と言えば、彼は、不服そうに視線を逸らしたが。
「いーじゃない、とか、軽く言われても」
「え、何か変? と言うか正直、僕はホントに、カーラが良ければ、どうでも良いし?」
ケロッと、そしてしれっと、ユインは小首を傾げ。
「…………僕は……、僕はそれでも、ジョウイが生きててくれた方が良い……っ」
二人の言葉を、ユインに涙拭われながら聞いていたカーラは、親友の首筋に縋り付いた。
「カーラ……。あ、あのね……」
「何で? 僕がそう思うだけじゃ、駄目なんだ……?」
がばりと抱き着いてきた親友を、寸での処で受け止めながらもジョウイは渋い顔をし、そんな彼を、カーラは睨んで。
「あの……。ユインさんの前で、そういうことするの、止めた方が良いと思うよ……」
飄々とした風情を一転、膨れっ面に移したユインを横目で見ながらジョウイは、申し訳なさそうに洩らした。
「カーラ! ジョウイ!」
──────その時。
麓から続く峠道を駆け上がる、幾人かの足音と、自分達を呼ぶ声が聞こえ。
彼等は、振り返った。